藤原純友所縁のお社巡り その三 新居浜市種子川 『中野神社』

 大分だらだらやっていますが一応シリーズ3回目と云うことでhttp://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20100719の続きにして最後の記事、場所は瀬戸内海を渡り伊予国こと愛媛県新居浜市にある『中野神社』を訪ねてみました。

 純友神社の記事で書きましたが、全国で藤原純友を祭神として奉る神社は松島の純友神社のみ、という認識が多く見られるのですが実際はここ中野神社を含めて二社とするのが正しいと思います。こちら「中野神社」の方は「純友」の名を冠していない分ワリを食った感があり純友奉祭の社から漏れてしまっていたのかもしれませんが、アクセスのし易さから云うとこちらの方が断然便利、船を仕立てたりとする必要は全くありません。ありませんがあまり大きな神社ではありませんのでその場所、近くまで来てもちょっと判りにくいかもしれないというところが難点でしょうか。

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 前日は児島周辺をぷらぷらしていたのが本日の中野神社参拝に間に合わせるために移動を強行、宿泊は新居浜市、高速インターから近いところにある郊外外れの宿で一泊。宿の前を流れる国領川を遡れば大体神社の近くまで行く事が出来るようで、とりあえず山の方へ南下。良い季節に訪れて良い天気に恵まれ非常に気持ちのよいツーリングと云ったところでしたが、

 予州南部にそびえる山麓が間近に見えてくるとたちまちのうちに道に迷う。ぎりぎりまで住宅地だったのにいきなり周囲こんな風景に変わる、山の緑に隠れて旧別子山銅山の精製施設の跡が顔を見せる、川は渓谷のようになる、滝壺の案内まで現れると次に現れる景色に予想もできない四国都市に迷い

 なんとか発見した神社所在を表す石柱、「新高神社 中野神社」と並記。山の方を登るんじゃないかという坂道を折れて、未舗装・人ん家の裏口に通じてるんじゃねえかみたいな道は田んぼを抜けて神社へ。ちなみに周囲に車を止められそうな場所はありません。

 山から流れる水が物凄い勢いのまま田の用水化しているため滝に近づいている最中のような水の轟音が聞こえてる。その音は神社の目の前を堀のように流れる水の仕業、手水代わりに手を洗うと大変気持ちがよかった。

 両脇の柱に「新高神社」「中野神社」と記された鳥居をくぐるとすぐに本殿が見える境内はそんなに広くなく、山の麓にささやかに奉られてる、そんな印象を抱かせる神社です。まだ蚊の出ない季節、山に面した木陰の下はこれまた大変気持ちがよろしい。

 参道奧に神社本殿。その参道から途中何故か左に別れる形の枝参道の先の鳥居と狛犬の脇にある石柱と碑に中野神社と祭神藤原純友の由来について概要が記されている。てっきりひっそりほっとかれているかのような扱いを受けていると思ったのでこれは意外。石柱の横側には更に、神社合祀の和霊様(山家清兵衛)、同じく祭神として近くの松木新之丞の名前と経歴を記している。松木新之丞とはここからここの東側山中にあった麓(中野)城主で、豊臣秀吉四国征伐の一環である伊予天正の陣において金子元宅等と共に長宗我部方として豊臣方の小早川隆景軍に抵抗、敗戦の後自害したとの事。なんとこの中野神社、宇和島より分霊された和霊さんこと山家清兵衛公頼も含めて三柱悉く非業の死を遂げた御霊社に近い祭神であるとの旨明らかに。

 「祭神悉く御霊」、結構なワケあり振りをここに露呈した中野神社、その由緒書きの碑には伊予掾として赴任した藤原純友が役人として民衆を慰撫した結果大いに慕われやがて伊予水軍の統領に挙げられて後任期終了後も藤原忠平摂関家が専横を極める都に帰るを潔しとせず遂に伊予の地にて中央に反旗を翻すも討伐軍に敗れこの地に近い中野山で討たれたこと、またずっと後世、天正年間になって付近一帯を治めた領主で同様にこの地で戦死を遂げた中野麓城主松木新之丞の徳をたたえて祭ること、後に水利の神として伊予和霊神社より分霊を求め一緒に祭ること、記されています。
 御霊信仰は広く日本で奉られる形態ですが、この場所はとかく敗者を奉りたがりたい住民心理でもあったのでしょうか? 御霊信仰の多くは敗者への後ろめたさから発展することが多いと思うのですが。

 ここでこの純友神社由来の碑から何故か離れて鎮する神社本殿に目を向けてみましょう。後方と右手は山の崖、左手は目前に 公園と遙かに新居浜市街地を望むモノのそれは足下の崖の向こう、この「ほっといてくれよ」感は神域として大変理想的です。拝殿中、さすがに人が住んでる近くだけあって鍵かけられて入るコトが出来ないのですが覗いてみると多くの奉納額。それも天皇皇后両陛下の御真影の多さに意外に思う。大正天皇御真影なんかもう山奥の旧家(という言葉自体もほぼ死後に近いが)探したって見つかりっこないですから貴重と云えば貴重。ただし一応は天皇の主宰する朝廷に反逆した藤原純友を奉る神社にこれだけ多くの御真影が奉納されているのは極めて妙。どういう事なのでしょうか? 

 疑問に思い周囲を見渡すと、先程の中野神社の由来を記した石柱と同じような石柱が神社の北側、断崖に接した側に立っており「新高神社 」と記してある。それによると新高神社とは古代にここら周囲一帯新居浜市を中心とする新居地方に上陸して初めて開墾に従事した貴人を奉っているとのこと。その貴人とは という皇族で景行天皇の皇子と云うことですから日本武尊の兄弟というコトになりますね。日本武尊と同じように大和朝廷の威を世に知らしめるためこの地を征伐に、遙々大和から派遣されたのでしょうか? 景行天皇は50人近くいる殆どの皇子を各地に派遣したそうです。

 それにしても「神代の皇族」と「朝廷への反逆者」の同居、大変奇妙な組み合わせと言ってよい「新高・中野」神社の祭神です。気にはなるモノの、事実同社に同時に奉られている以上文句の付けようはずは無く昔の新居浜の人は海から来たモノに大変なシンパシーを持って敬っていたことの名残かとか、そんなことを思って神社参道脇でぼーっとしていると*1地元の御参拝者が登場、野良着を着たおばあさんです。片手に青竹を持ちさも慣れている風で御参拝を終えたおばあさんの後ろ姿をやはりぼーっと眺める。神社入り口近くへ歩いて行くにつれて参道の階段を下りていくおばあさんの頭は地面に吸い込まれて見えなくなる。何とはなしにその見えなくなった参道の横に目を移してみると、なにやらコンクリート製の建物の土台のようなモノ。ちょうど、「中野神社由来碑」がある辺りだ。つまり、迂闊だった。いつ、どういう理由か、その場所にあった「中野神社」は撤去されてしまっていたのだ。元々、「新高神社・中野神社」は文字通り別のお社で境内を同じくするお隣同士の神さまだったということ。それがどういう理由か「中野神社」の方のお社は失われて境内には「新高神社」のお社だけ残されている、それが現在の姿だった。

 となると参拝したのは正式には「新高神社」の方と云うコトになる。これは題を変更しなければならないか? まあ、社の無くなった現在、「中野神社」に奉られていた各柱は新高神社に奉られていることだろう、恐らく・・・。というコトで「中野神社」の祭神「藤原純友」を参ったことになんら異同はない。そう云うことにしておこう。日は大分高くなっているのにこの境内、相変わらず心地良く離れるのが大変惜しい。とは言っても本日中に関東まで戻らなければならないのだ、バイクで。 ・・・え? ムリなんじゃね? 

 「ヒヨドリくんよ、どう思う?」「ムリムリ」
 (補記)
 帰った後WEBで色々当たってみたところ、以前は「中野神社」自身に社殿、即ち上に紹介した境内一番奥まった位置にある「新高神社」ではなくもう少し手前の部分、社殿があったこと確認。

 新高神社と共に中野神社を管理されていいる新居浜市内堀江神社の宮司さんに電話でお話を伺う。それによると数年前この地を襲った暴風雨で純友神社裏手の土手が崩壊、土砂崩れに飲まれて社殿は破壊されてしまったとの事。車内に奉られていた御祭神等は現在緊急避難的に新高神社内に奉られているそうです。そこにあった新高神社にはお参りしましたので一応は純友さんにもお参りした事にはなってます。
 せっかくですので宮司さんにはこの中野神社について色々教えていただきました。まず同社内、和霊神社合祀の理由について、嘗てすぐ近くを流れる種子川・西足川等の水利権について南北で巡る水争いが起こり訴訟にまで発展、その際一方の当事者である種子川周辺の住民は宇和島和霊神社にまで遙々参拝、勝訴を祈願したとのこと。名うての祟り神転じて伊予有数に霊験あらたかな山家さん参りが功を奏してか、訴訟は昔より種子川の水利権を専断していたとの種子川下流域(中野神社周辺)の主張が認められる判決が下り、これに感謝した住民が宇和島和霊神社から分祀を求めて中野神社に合祀したのが始まりとのこと。現地に行ってみるとわかるのですが、この種子川、川沿いに南に行けばちょっと有名らしい「魔戸の滝」もあり、急峻な山々を縫い出て結構な水量があるように見えるのですが昔はやはりほんの僅かな水でも生死に関わる出来事だったのでしょう。他に神社のある山の麓、現在山根公園となってる辺り一帯昔は住友鉱業別子山銅山の鉱山住宅が広がり山々から落ち流れる水はここに住む鉱山労働者達の貴重な生活水になっていたと云うこと現在の景色からは想像もできません。

 ↑こんな感じの街の風景だったのでしょう。ちなみにコレは足尾。

 さて肝心の「祭神・藤原純友」についてなのですが、ここ中野神社に一番最初から祭られていた祭神こそ藤原純友その人であったとのことです。現在神社のある場所の東側に「麓城」と呼ばれる砦があったとのこと。これは境内に残る由緒書きに刻まれているお話しですが、その更に東側のことでしょうか、「神社の東」に「中野山」と呼ばれる山があり、藤原純友が戦死した場所との言い伝えが残ることからその麓のこの地にその霊を祭る神社を建てたとのことです。神社のこの謂われについては平将門における国王神社・神田明神・将門塚の由来・伝説に酷似しています。そこで私は宮司さんにその後関東では絶大な崇敬と人気を誇ることになる平将門と同様、ここ伊予でも古の反逆者藤原純友について独特の英雄感やシンパシーを持っているのかかと云う質問をしてみました。すると意外なことに宮司さんの意見としては「藤原純友に関しては平将門と違ってそのように英雄視される風潮はない」と明確に否定されておりました。宮司さんの意見によると藤原純友の率いた「水軍」と呼ばれる集団は瀬戸内海一帯のかなり広い範囲で活動していた水軍・海賊衆を含みその質にかなりばらつきがあったため、地域からの強い支持を受けていたかどうか疑問であるとのこと。近くで純友戦死の伝承が残るこの地に地元民が神社を建てて彼を祭る理由はその生前の強烈な行動力から死して周囲に祟りを成す事を恐れてのことではないか、とのこと。ここ伊予初め四国の地は菅原道真国司を勤めた事もあり天神信仰は昔から盛んとの事。また関東における平将門信仰の盛んである事もよくご存じで、両者共に元々は祟り神でありながら、平将門においてはその後祟り神としての範囲を超え広く万民の信仰を得る様になったに比べ藤原純友においては初め同様に祟り神として奉られながら遂には菅原道真平将門二柱のように更に次の段階へ経る事ができなかった、としています。伊予始めとして瀬戸内に面する四国の各地には藤原純友に関する伝承を伝える史跡・・・例えば彼が腰を下ろした石とかその程度の・・・が点在するがその殆どに「崇敬」の意図は伴わず、むしろ古の悪人としてイメージが強く残る伝承も多いとのこと。ただ、良くも悪くも大昔の伊予を舞台とした地域の先人であるのにも関わらず、彼に関しての文献資料の非常に乏しい事は宮司さんも大変残念がっておられ、また記録に定かになくとも伝承として彼の死を伝えるこの場所に注目する純友研究者も少なからず存在すると云うコトで、宮司さん自身も今後藤原純友についてわかる事を調べまとめていきたいと抱負を語られておりました。

 いつまでも社殿のない事は憂いの種、という事でそろそろ再建についての相談を氏子中にかけようかと、今度の祭礼の際に宮司さんから提案してみるようです。祭礼は7月26日だそうです。

 それにしても今回の藤原純友由来行、現地に伝わる伝承によって少しでも藤原純友の実像が掴めればと思ったのが結果はその正反対、ある所では英雄視して讃えればある人は悪人としての評価を翻さない、一方で強力な怨霊神としての痕跡や更に呪術を処したかのような痕跡まで残る。評して「ますます実態の掴めない怪人物」というのが正直な感想。実体明らかならぬ一方で西国広範囲に残る「藤原純友」の名は実は承平天慶の乱において非常にスケールの大きな戦略でもって王都転覆を狙っていた痕跡なのではないかとも思えてくる。ともすればこの人、その人外の思慮の先に自らの破滅後の計画さえも見据えていたような気もしてならない。権力側に正面切って立ち向かいその末の敗北、後強大な魔力を持って蘇ることとなった怨霊神菅原道真平将門とはまた違った、生きながら魔人然とした姿が藤原純友には似合うようだ。その魔人の後代を弔うに市井の人々はひどく気を遣ったことだろう。故に信仰の拡散を肯んぜず所縁の地でひっそりと祭られることが藤原純友神の宿命であろうか。 おわり

*1:この行動こそが実は神社巡り最大の至福だったりします