運転免許に普通二輪の項目が増える。で、思ったこと。

 病気が「治った」後、彼が第一にしようと望んだことは、再び自動二輪普通免許を取ることであった。
 彼が免許とバイクを失ったきっかけは、その後に続く彼の人生における長い逼塞の原因と理由を同じにする。何故か、医者より処方された数週間分の精神安定剤を一度に飲んで、夢見心地のままバイクに跨り、いくつかの知り合い宅に奇行の手土産を持って訪問し、見知らぬ病院のベッドの上で気付いた時、何処ぞで乗り捨ててきた彼のバイクはそのまま彼の手から永遠に失われ、後に更新されない免許を失うことで、彼の人生は全く先の見えない長い雌伏の時を迎えることとなる。その時の数週間前、彼は私に「やりたいことが見つかった」と喜々として語り、「そのために勉強したい」と、彼の意志を止めるモノがいるとすれば、それは倦怠によって呼び出される彼の意志の鈍麻以外に有り得ないであろうと予測される姿であった。
 発病する前から、彼には周りを少々辟易させる癖があった。何か「真理」を見つけると〜それは宮沢賢治であったり、法華教であったり、日蓮上人であったり、ニーチェであったり、池田大作であったり〜、時をかまわず誰かに電話して語りたがるというものであった。当然、そんな電話にまともに同調するものなどいるはずもなく、中には「頭がおかしい」と名指しして電話に出ることを拒否する輩もいたこと、ある意味致し方ないとも思える。私の場合、「またか」の思いはあれども、そのほとんどは聞き流しながらも彼の意味のない説教に時間を割くことも多かった。今思えば「少なくとも電話を切らずにいてくれる」のは、私だけだったのかもしれない。とはいっても、私だって、何度かに一度は居留守を使いやんわりと拒否することもあったのだが。電話がまだパーソナルツールではなかった時代の話である。
 ほんの少しの間・・・人生から見ればであるが、彼は完全に沈黙する事が何度かあった。その様な時も私は、私からコンタクトを取ることはない。そのうち、沈黙から覚めた彼の方からまた私にとってはあまり意味のない電話をかけてくるようになるからだ。それが頻回になると少し鬱陶しくなって何度かに一度は電話に出ない。その内、彼は再び沈黙する。そんなことを繰り返しているうちに、彼はあっち側とこっち側との双方で友達を失っていく。そんな中、以前と変わらぬ距離で私が彼との間を保つことができたのは、確かに同情あったものの、彼の気持ちを正面から受け止めない適当さが私の中にあったからに他ならない。断っておくが、当時、私自身、この「適当さ」を決して悪いこととは思ってなかった。
 その適当さの中で、彼が語る近況を何となく把握はしていた。バイトを始めたこと、挫折したこと、社会復帰のリハビリとするために作業所に通い始めたこと、かと思えば自分の状況を受け入れることができずに「他の人たちと一緒に」作業所で働くのがいやになってそれがきっかけで再び沈黙しそうになったこと。
 彼からよく連絡が来る時期は、彼が調子の良いときの裏返しで、そうなると私もいつものように何度かに一度は彼の電話を無視する。それは私の「彼は調子がよい」という私の安心の裏返しでもあった。だから、彼があのとき何を話そうとして私に電話をしたのかは永遠にわからない。そして、そのことは、永遠の後悔となって私に残る。私が生きている限り。
 恐らく彼が旅立ったのは、私に最後の電話をしようとした後、数時間以内の出来事で、或いはその電話で何かその旅立つことに関係した事を話すつもりであったのかもしれない。彼が残した最後の着信記録は、やがて、他のどうでも良い日常の通話の記録に押し出されて消えていく。
 私のとても広いとは言えない交友関係からしか比べられないのが口惜しい限りであるが、私は彼ほど自分の人生に前向きで、その困難さを自覚していながら楽天的に進もうとした人を知らない。彼は私なんかよりずっと強い人間だ。何故か、気まぐれに誰かが与えた過酷な運命に翻弄され、少しでも、自分の思うような人生を歩めなかったことが残念でならない。
 誰の言葉だったか、人は二度死ぬと言う。一度は、肉体的に死を迎える時。二度目はその人のことを憶えている人が死に絶えたとき。その時本当の死が訪れる。今、彼のことを憶えているのは、彼を最後まで慈しんだ欠け替えのない両親、私を含めた友人。もしも、彼を知る人たちが死に絶えた時、彼が本当に死ななくても良いように、この、WEB世界の片隅に、彼の記憶を留めておきたい。こうすることによって、彼の記憶は、時々、偶然、全く知らない人々の目に触れることによって、もしかして半永久的にWEB世界を漂ういながら生きながらえるかもしれない。彼がそれを望むかどうかわからないが、彼の最後の言葉を聞き取れなかった罪滅ぼしとするにはおこがましい事であろうか。