Memento mori

 気がつけば、誕生月も最後の日曜、このままではアレなので記念に都内江戸期の刑場跡を巡ってみることにしました。しかしホント暗いよなお前。いえいえ「不吉な出来事に対してあえて不吉な対策でもって振り払う」というのは道教でも行われる行為で・・・だから誕生日を不吉と言ってる時点で暗いんだよ。

 最初に訪れたのは埼玉に一番近い板橋刑場、中山道第一の宿場です。現在の板橋駅は板橋宿の外れ、平尾宿の辺りに建てられており、その板橋駅滝野川口を降り、そのままロータリーを突っ切った辺り。往時はここに平尾一里塚が置かれ刑場はそのすぐそば、今は一里塚も刑場も跡形もなくなっているが、一里塚については中山道をもうしばらく北上すると今でも「志村一里塚」が残されているのでどうぞご参考に。板橋駅前、今はロータリーと住宅のみ、刑場も宿場も面影はない。個人的な話で大変恐縮だが自分はこの場所で昔致命的にヤな事があったので正直早く脱出したい、自分で勝手に来ておいてそれはないだろうが、ロータリーの中にある銅像と何故か同じ様な格好で手足を絡ませて読書している女性の手足があまりに長く見えるのがクモみたいだなと思いながら横断歩道を渡って唯一残る刑場の遺構「近藤勇の墓」を訪れる。

 甲府で破れて下総に逃れた後流山で官軍に包囲、土方歳三らを逃すために投降、偽名「大久保大和」の名は敢え無く見破られ、結果この場所で斬首という屈辱の中生涯を閉じる、近藤勇35歳(33歳)。首はここ板橋と三条河原で晒された後行方不明に、この地には胴体のみ埋められている(はず)。三条河原で晒される近藤の首を描いた瓦版が今に残るが、随分と情けない顔に描かれているのは蔑むためにわざとなのだろう。実際の写真に残る近藤さんの顔と言えばまさに豪傑然とした角張った老け顔で、とても三十代とは思えんかったのが、自分がそろそろそんな歳に差し掛かり、十代の頃から大分老けた自分の顔と見比べて見ても改めてやはりありえん老け顔を、ちょこっと修正した近藤さんの肖像が敷地内に近藤より遅れて函館で土方歳三さんとこの墓を建てるに当たっての発起人で80過ぎても眼力だけで町のチンピラ共を追い払ったスーパーじじい永倉新八さんの若かりし頃の肖像と並ぶ。三者のお墓、ここに並ぶ。実は、近藤さん、土方さん両者の遺体はその後どうなったのかはっきりとは解らない敗者の常。近藤さん、土方さんの墓碑の隣りに無縁仏の供養塔が並ぶ。刑死者を弔ったモノか戊辰戦争による戦死者を弔ったモノか、何れにせよ、住宅街の一角にあってここが未だに異界であることの消息に少しは襟を正したい。そんな墓碑の向こう側をなんか知らないけどゴスな女の子達が大勢で通り過ぎていく。面白いから墓碑の背景にとカメラを構えたが別の観光客が視界に入ってきたのでどけよとも言えず諦める。ここから一歩外を出るとあたりの商店は近藤勇で便乗中。便乗とは関係ないと思われるマクドナルドに入ってマックポークを買ったのは別に便乗する商店に反発しての事ではないが、もう口にしてから気付く。「近藤さん達にマックポークをお供えしてから食べればよかった・・・」

 第二の目的地、千住の宿は小塚原の刑場まではそんなに遠くないので歩いていくことにする。北区・板橋区・豊島区の境はしばらく渓谷をコンクリで固めた川沿いを行く、土木の勝利は循環できず臭いを発する腐れ川との新たな戦い。随分と脚力の衰えを感じながらダラダラと時間をロスして南千住の延命寺に着くと同時に雨足が強まる。

 ので、常磐線に乗ると見える背中向けて特徴的なドタマを覗かせる巨大な「首切り地蔵」の前で暫し雨宿り。

 止みそうもないし刑場はあと一カ所残っている、と予定が押している関係もあり仕方なく強行することに

 ↑境内の刑場跡説明書きがなかなか刺激的な文です。合掌。その時分ここらは草原、常に獄門の首が腐るに任せて幾つも置かれ、死臭漂い人魂の一つや二つ浮かんでいても不自然でない場所を客引きの夜鷹が声をかけてきたりしていたそうです。

 小塚原刑場跡は実は現在やんごとなき事情により二つ分断されております。そのやんごとない理由の下を潜るともう一方の刑場跡回向院に付きます。南千住も昔と比べると大分変わりましたが、このやんごとない理由の下を潜るごく短い距離なのに深い深ぁ〜い闇に見えて仕様の無かった狭いトンネルは健在です。汐入地区にじゃんじゃか再開発の手が入り、ここも新しい路線の駅が出来ると言うことで四方八方道路が延びているようで実は二カ所意外全て行き止まりという無意味に不条理な駅前に手を加えられる前、この全面に搾取打倒を掲げる左翼や天皇賛美を掲げる右翼の全面にベタベタ貼られたトンネルをひっきりなしに労務者さんヤクザに在日にビジネスマンに普通のおっちゃんおばちゃんにいろんな人たちが昼も夜も行き交う異界の入り口のような不思議さは影を潜めました。真ん中に立って写真を撮ろうとするとよく前を見ていない労務者さんがぶつかってきましたが今では向こうから避けてくれます。

 回向院です。雨足は弱まる兆しを見せませんのでまたここでも少し雨宿り。するとたまたま行き合った、いつもここらのお寺を回るのが趣味だというおいちゃんが話しかけてきました。あまりに暗そうだったので心配になったのでしょう。おいちゃんのおじいさんは関東大震災時、たまたま吉原近くにある弁天池を訪れ、そこで物凄い数の遊女の遺体を目撃、写真に収めた縁で今でも定期的にその弁天池のお掃除に来るのだとのこと。板橋から歩いてきたと言ったら腰抜かしてましたが私はおいちゃんの義理堅い頑なな姿勢の方に腰を抜かしそうになりましたよ。そんなおいちゃんの持つ自慢のライカ。私のキャノンと並べるといかにも成り上がりモノの貧相さが目に付きます僕のカメラも良いカメラなんだけどね、菊一文字と清麿を並べるような格の違い。残念ながら使いこなせないそうです。何故か私、こういうおいちゃんに話しかけられること多くよく秘蔵のお宝を見せてもらうことが多いのですが一度たりとも「あげるよ」と言ってくれたことはありません。世の中そんなに甘くありません。
 
 久々に訪れた回向院はきちんと区画整理されていて面白さは半減です。昔の普通の檀家の墓に混じっていきなり有名どころの墓があられるカオスっぷりは改善されちゃってます。もう雨の止む様子は全く見込めないので次の目的地に向かうことにします。

 京浜急行は油断すると簡単に駅を乗り越す。今に始まったことで無いのですがやはり慣れないと簡単に振り切られる。そんなこんなで結構苦労した末に辿り着いたのが鈴ヶ森。ここの刑場跡もお寺の敷地になっていました。東海道筋の江戸の入口だけあって、ここで処刑された人の数も半端じゃありません。昔は海が見えたそうです。平井権八は人より高く掲げられた磔柱の上で小紫を慕う小唄を口ずさみながら刑に服したそうです。そんな鈴ヶ森刑場跡は今まで巡った中で一番多く遺構が残されております。隣のお隣が第一京浜にも関わらず鬱蒼とした木々に遮られおまけに雨音もあって車の音は掻き消され、と言いたいところだが京浜「ジェットコースター」急行はお構いなしにビュンビュン飛ばしていくので通るたびに音は響きまくり、情緒はお預けです。と言うか刑場の情緒ってどんな情緒だ?

 日も暮れる前にお江戸の刑場跡は全て走破、冥土の旅の一里塚記念月に回った感想、特に生まれ変わった気持ちになれたかというとそんなワケはなく、現実の憎らしさにますます心乱れる日々がこれからも続くと思うとますます気が気でなく、どうせなら八王子大和田刑場にも行っておけば良かったと後悔まで出てしまう日でした。折角の休みに後悔するなんてホントモノ好きだと思いますわ。    おわり。