ねこ川原にネコ


 こんちまたまたネコのハナシで大変恐縮です。白状しますがこの一文、滝田ゆう作『泥鰌庵閑話』の1シーンからパクリました。ですのでこの一文に限って脳内にて滝田ゆうの声で変換していただければ大変雰囲気が出ます。ちなみにネコのハナシなのに冒頭の写真が何故ウシかという類の質問には回答いたしませんので悪しからず。


 通勤途中にある河川の河原にねこが多くいるせいで自分はしばしば遅刻の危機に見舞われる。全く困ったことである。このネコ共に説諭の一つでも行って少しは懲らしめてやろうと時々バイクを駐めて河原を降りていつもネコ共がたむろしているある橋の下の辺りに行ってみるときゃつらは人のいることなど気にも留めぬ風で河原下をウロウロしている、あまつさえ何匹かいる仔ネコに至っては何かくれるものかと寄ってくる。これでは説諭のしようがない。むろん懲らしめることもできない。それでもなお諦めず時間さえあれば橋の下の河原に降りてねこの説諭を試みてもきゃつら聞く耳を持たない。仕方がないので河原で彼らがいかに傍若無人に振る舞っているか、その様を記録として残すため必ずカメラで現場を撮るようにして、この惨状を世の人々に問おうとこのブログに断続的に挙げたところ意に反して賞賛の声多く、ブログというモノは書き手の言いたいコトなかなか伝わりにくいモノだと何かを表現することの難しさを散々思い知らされることとなったのでした。

 ところでこの河原のネコの数、常時最低5匹、最盛期は15匹を越える*1というそうそうたる面々*2その殆どが飼い主なしということでそろいも揃って毛がキタナイのは仕方がないとしても、それでもやはりネコが思い思いにウロウロしている様はこの場所を通りがかりの人、この場所を釣り場にする釣り人、この場所を住み処にする仙人みたいな人、等々に可愛がられて致命的にエサに不自由するようなことも少なく、そのお陰か春と秋には何故か仔ネコが混じっていたりしてと彼らはそこでとても幸せそうに暮らしておりました。この状態を形容するに嘗て私はこのブログの中コメント欄で「ネコとアヒルヘラブナと釣り人が同居する夢のような」場所と書いたことがありましたが、これは訂正が必要です。現実はこれにカメが加わって「ネコとアヒルヘラブナと釣り人とカメ(春〜秋限定)が同居する天国のような」場所です。ちなみに冒頭のウシは別の河川敷にいる全くの別モンです。目の前の自動車教習所を日がな一日眺めながら草食ってます。この様子を最初見た時は頭がおかしくなったのかと思ったものです。

 去年の冬は寒さが後を引き、春がやっと来たと思えば春とも言えない寒いままと治世悪くして天帝天を乱して世に知らしめる好例となったことご存じの通りなのですが、この天意も文明の利器の元多少の屋根の下で暮らす我々にとってみれば「ああ寒かったけどいつの間にかもうすぐ梅雨開けるね」で済みそうなモノが、屋根が橋の底板と申し訳程度に好事家作ってあげた掘っ立て小屋という川原のネコにとってみればたまったモノではないと思います。まだ厳しい冬の最中でのことなのですが、まず仔ネコの姿が見えなくなりました。その時既に成長している大人のネコ達は寒い最中でも思い思いに温なった日だまりやこいつ等川の魚を取り尽くす気かと冬でも関係なく川原を訪れる釣り人が防寒対策で焚く火に近寄ったりして寒さを凌いでいる様子にやはりネコは要領がよいな、そうやって冬を越すのだなと感心しきりの安心しきり。

 事態の変化を感じたのは長い冬が終わった頃です。橋の周りの日の当たる場所にネコ達の姿が見えなくなったのは、もう寒さを避ける必要の無くなり早くも暑さでも避けよかいと早々に日陰を求めて橋の影にたむろするようになっている彼らの行動は去年の例からしてお見通しということで、特に気には留めませんでした。ところが、そろそろ今年も仔ネコの何匹か誕生しただろうと大変複雑な心境を含みながらもちょっと期待して、仕事に遅刻するリスクを冒してまで橋の下をのぞき込んでみると、いないのである。

 仔猫はともかくとしてあれだけ大勢、冬を乗り切るために全く努力をしていない風の知恵を見せていたあのネコ達の姿がないのである。これは大変怪しいコトである。或いは自称役所の手先とか自称自警団とか言う地域エゴの権化の手先*3が春早々と駆除を行った結果か、あるいはネコを援助する各者が駆除されたか、いずれにせよそれまで通勤時一服の清涼となっていたこの場所がなにやら通る度に心乱される風水の窪地のような場所に成り代わり、心配のあまり仕事にも差し障る有り様となっていったのでした。

 そんなある日今日こそはねこいないか、とそう心に祈りながら覗いた橋の下*4、なんの奇跡か、一匹だけ、以前ネコが大勢でお腹地べたにはり付けてのぺっていた護岸のコンクリに一匹だけ、寝転がってこちらの視線を迷惑そうにしているのが見えたのでした。以前ネコが大勢いた時にこのネコは見たことがありました。他含めて総員何処ぞに出張中がコイツだけ先発で戻ってきたか、他は待ってれば後々来るか、いずれにせよネコの姿が消えた川原に一匹でも見つけたネコの姿に、安堵の胸を撫で下ろし、悪心の窪地と化していたこの場所が久方ぶり清涼を回復して、その日は快く仕事に臨むことができたのでした。いざ仕事になったら全くやる気はなくなりましたが。

 その後も時偶橋の下を覗き、彼の一匹のいることが確かめられ安堵すると同時にやはりいつも一匹の、この状態には多く不安に駆られ、あれだけいたネコ達はやはり、との思いに駆られるようになった日々の中、その思いを和らげてくれたのは意外にもネコではなくカメでした。
*5
 別にカメがネコの代わりを果たしたわけでもなんでもなく、昨夜大雨に泥色の濁水に溢れた川の護岸土手の最上部まで登ってきて久方ぶりの日の光を存分に浴びていたこのカメを撮ろうとこのカメに近づくと、カメ即座に踵を返し護岸壁の坂道を素早く降りていく、それはもうカメ歩くの遅せぇなんて迷信だろと思うほどの速さで転がるように降りていき遂には土手の途中でひっくり返って仰向けになって、あれやっぱ単にアセって転がり落ちて行っただけなんやろなぁ。
 日は段々と高くなり腹仰向けにもがくカメ。このまま行けば天日干し必定のやむなき、助けぬ訳にもいくまいと土手の途中のカメに近寄ると、どうやらこのカメ、私という人だけに驚いたのではなく更にもう二体のカメ外生物の接近に戸惑いカメ外のスピードで転がり降りていくことになったと気付く。私以外の二体のカメ外生物とはつまり

 仔ネコであった。これは怖い! 

 好奇心旺盛な仔ネコの前に転がる仰向けのカメ。十中八九、カメにとって世界はもはや終わりを告げる。この期に及んでカメは頭手足を甲羅に隠して抵抗を試みるカメ、既に自分が火攻め兵糧攻めにあっていることを失念しているらしい、素晴らしき爬虫類知能。この争いを調停するに私以外誰がいるというような状況なので、カメ持ってひっくり返すと。

 写真撮る間もないくらいすげぇ勢いで水面へ。カメ、まぐれでなく本当にハヤい、この日のお利口になったこと

 そしてもう一つ得た知識、この場所に何故か仔ネコが二匹残っていること、判明。

 良かったよかったとばかりは言ってられない。仔ネコがいるなら親もいるだろうと思うがどう見てもそれらしきのは見えない。いつも寝ているアイツが親とはその醸し出す無頼の雰囲気からとてもそうは思えない。となるとコイツ等をマトモに食わせる存在がいるのだろうか? でないとまた季節の変わり目にいつの間にか消えてしまうことになりかねないだろうか? 色々と地域エゴに敵対するような問題提起を自身の中に確立するようになり、とりあえずの答えとして、「次来た時はエサの一つでもあげよう」「『次』がいつでも対応できるように鞄の中にネコエサの一つでも買って入れておこう」。通勤鞄にネコエサを入れて職場へ行くなんて、勉強のできない小学生に戻ったような気分だ、いや職場にバイクで通ってる時点で頭悪いと思う・・・。

 「次の機会」は雨の日だった。ネコ目的というのもさることながら突如の雨を橋の下に避けるという色合いも強かった。雨を避け、ネコに会う、ドコか間違っているような気もしないでもないがともあれ、この日橋の下にいたのは例の一匹だけのネコと、更に例の茶白の仔ネコ二匹に、釣り人が二匹・・・

 橋の下、釣り具の上に堂々と丸まって乗っかっている例の一匹に仔ネコの一匹は捲きエサだかネコのエサだかを入れる器の中にこれも丸まって寝てる、もう一匹は釣り人の膝、そして釣り人は仔ネコのノミを取っている。何だか知らない人の家のような気易さに、当然こちらとしては人ん家に勝手に上がり込んだような気まずさ、に勘違いせず物怖じせず、ここは堂々と写真を撮ろう。勿論撮影に辺りネコと釣り人の許可は得る。ここは人ん家の様なモノだから。「すいません」「どうぞ」。

 なんだかなー、ともかく釣り人氏、ちゃんとネコのえさも持参しての立派な太公望振りはちょっと尊敬です。写真を撮るに当たり、ちょっと釣り人氏から聞かれたのが「役所の人か?」「見えますか?」 釣り人氏の言によるとやはりこの場所に「役所の手先」はやってきて、ネコを可愛がる釣り人氏にやれエサやるなだの全部集めて処分しろだのうるさいことを言うらしい。「役所の手先」の裏には「住民の手先もどき」の影も見える。「役所の手先」は「住民の手先もどき」のような「≧納税者」の味方のようだから仕方がない。

 ところが「釣り人氏」にも言い分がある。「この場所はどういうワケかあちこちからネコが捨てられに来て放っておいてもネコが増えてしまう。そいつらにエサをやらないとネコ達がエサを求めて付近の住宅にまで入り込んできて余計迷惑がかかる。自分達がエサをやるのはそれを避けるためだ。」なるほど、つまりこれは変則三竦み。どの言い分も自称正しいから解決のしようがない。ここは通りがかり人らしく、無責任に迎合しよう。幸いにして自分の立場は釣り人氏と≒であるし。

 釣り人氏、毎週定期的にこの場所を訪れると云うことで、この場所でのネコ勢力の変遷についても造詣が深い様子。そのお話によると、私が危惧した以前のネコほぼ全滅はほぼ事実らしく、あるネコは車に轢かれる当の交通事故に遭い、またほんの数匹運の良いヤツらはもらわれていったとのこと。そして現在の惨状に直接繋がる最大の悲劇はネコたちの間に流行病が流行ったと云うことで、この病気の威力は凄まじく、あれだけいたネコ殆どに感染、次々とその命を奪っていったとのこと。今一匹だけ残る「以前の」ネコは元々他のネコに嫌われて当時のネコの輪には入る事ができずいつも離れた所で一匹だけいたとのこと。このように他のネコと隔離され接触する機会がなかったことから結果一匹だけ生き残る結果になったとのこと。まるで敢えてマイノリティ因子を残しておくことで将来の生物的危機に対応するため統合失調症は遺伝的に残されている云々といった暴説の証明のような出来事です。暴説云々はともかくとして興味深くも皮肉なネコ社会の一端を垣間見たワケです。

 その後この地に一匹だけ残されたネコの元になんの天の思し召しか、二匹の仔ネコがどこからともなく現れて・・・と云うようなベタな展開を創作するより正直に言いますが単に仔ネコが二匹、橋の下に捨てられていたということです。久方ぶりの、か弱く頼りなげな同胞の登場に前からいた最後の一匹ネコはどうしたかというと、いつも釣り人の置いてくれるエサ場*6の場所を教えたり遊びたい盛りの二匹をかまってあげたり毛繕いを手伝ったり・・・そうか、君はずっと友達が欲しかったんだね。

 「捨てられたんだろうが勝手に繁殖したんだろうがこのネコだって生きているんだ。それをかまうなエサを与えるな駆除しろだ、そんなことできるわけない。どんな生き物でも生き物としての尊厳があるんだ。だからこうして俺はここに来ると内緒でエサをあげたりこうやってノミを取ってあげたり、一時はたくさんいすぎたノミのせいで少し弱ってた仔ネコたちが最近はとても元気になった」 ノミ取りを終えた仔ネコが膝の上から立ち去ると釣り人のおっちゃんは少し悲しそうな顔をした後ちょっと嬉しそうな顔をして言いました。けどアンタ釣り人じゃん? さっき仔ネコのノミ取りしながら「釣れるかよー!」「またオデコか! 今日は駄目だなー!」とお仲間の釣り人に叫んでたのをワシは見たぞ? そやそやどこの口がそない言うてんねんこのボケカスアホンダラー! 

 などという釣り人の放った深刻な自己矛盾について「ネコを大事にする」と云う一点でこのおっちゃんと利害の一致する私は敢えて触れないでおいて黙って頷いていました。少なくとも魚類以下の下位動物を尊厳の対象としない釣り人の頭の構造はナゾです。複雑です。おとうさん、僕は人間というものがますます解らなくなってしまいましたよ、というお話です。おわり。

   

*1:ただし川の対岸同士等ネコの活動範囲と比して多少広い範囲を含む

*2:先の注通り多少広い範囲を撮っているのでこの総勢20匹が一度に集まるということはない

*3:断っておきますが、私のやっていること、言うなれば「寄り道エゴ」であること、その意味で「地域エゴ」に類するような思想を全く非難する立場にないこと重々承知しております

*4:なんだかヘンな表現だね、これ

*5:写真はイメージです

*6:ネコ皿とも言う