自己愛の権化その3〜我がローズ・セラヴィ〜

sans-tetes2007-05-24

 5月22日の続き。一応。
 ほぼ手術をする方向を決断した時、最初に思い浮かんだことは「諸々の不都合」。或いは仕事、或いは家族。・・・人によって。
 最初に思い浮かんだことが「不都合という負のカテゴリー」だったことは、ただの性格だろう。もっと、人によってはいろいろな方向を思い浮べるのかもしれない。手術を行ったからといって、全てが元通りになる、或いは元以上に良くなる、というのは人類が無知だからこそまかり通っていたただの幻想である。希望は大事。だからといって、常に希望通りの結果が用意されているとは限らない。その時になって、元々決められていた運命を直視し、自分自身のみが「幻想」していた都合の良い結果が否定され、、自らの思考をすぐさま方向転換して「現実」に向けて折り合いをつけられるほど物分かりが良い方ではない。だから、何か予想したりしなければいけない時、「ほんの少しだけ悪い方」を予想するようにしている。それでも、「自分の予想通り」少しだけ悪い方に結果が落ち着いた時、行儀良く受容ができるかと言うと。・・・ただの性格だろう。

 術後。思い浮かぶ自分の姿は、自ら動くことのできず、あらゆる無機的な繋がりのみが、世にあることを許される姿である、有機的に隔絶された肉体。善意を持って切り刻まれた腹。或いは「不具」となった体に甘んじなければならない。曲がりなりにも体を持ち上げることが出来るようになり、新たに写る鏡の中の同胞に、月並みの反応でしか対する事は出来ないのであろうか。・・・恐らく、自身「それでも愛する」選択を取るような気がする。どのような自分であっても、それが生まれついての業であろう。救い難し。
 心残りが一つだけ、それが「一番最初に思い浮かんだ」こと。「変容した自分。それとは別の以前愛した自分を形として残したい」「それは今しかない」。「一番最初に浮かんだこと」が「それ」なのは、やはり異常だろうか?論理的に説明し難い事こそ、即ち生まれついての業なのであろう。紛う方なき、私自身の今時点における自己愛の一つの表現であることに他ならない。動機は「ただの自己愛」。デュシャンのように、別に深遠な意味を籠めるつもりなどない。