亡者の雑感・・・私が院内亡者だった頃のお話

 亡者に許された行動は限られているに等しい。私の場合、麻酔等痛み止めが効きにくい体質らしく、「痛み止めで疼痛を和らげている間に何かを行う」ということが事実上不可能で、「寝ている」か「歩いている」ことしかできなかった。共に痛みに耐えるための手段である。このような体質は、何らかの因果があってのことだろう。故に、「亡者」たるに相応しいとも言える。体までひねくれてると言った方が正しいか?
 実際の所、述べたような2つの行動だけで、このような比較的困難とも言える状況を耐えろと言われてもなかなかできるものでもない。各人それぞれ、独特の方法でもって多少なりとも気を紛らわせているのであろう。私の場合、「歩行中、不意に降りてくる音楽」にずいぶんと助けられた。
 疼痛は、とにかくその宿り主の行動を制限する。術後以来、PCの操作をするのも億劫になっていた私は、外部より好きな音楽を聴く手段というのを絶たれてしまった状態で、私にとってこれはなかなか大きな苦行となっていた。聴くことへの渇望がある種の知覚を鋭敏にし、一見奇妙とも思える「遊び」を創りだしたとしても不思議でないように思える。
 基本的に静かにする事を旨とする病棟内といえども、水を打った静けさというわけではない。人々の歩く音、看護師・医師の話す声、金属製の医療器具の擦れる音、医療機器の電子的な囀り、今や縁遠くなった食事の配膳の音、等。その種類(趣と言おうか)を異にする多彩な音が、響くとまでいかずとも、病棟内のここ彼処に落ちている。私の中の鋭敏化されたある種の知覚は、それらを大変拾い易い状態になっているらしく、実際いともたやすくそれらが私の中に入ってくるのがよくわかる。その時、それらの音が、私の中の鋭敏化されたある種の知覚を通して、私の内部に蓄積された、今までに聴き込んできた音楽達を意識の表に引っぱり出してくるのだ。そのことを、その当時、私は「降りてくる」と呼んでいた。どのような関連で、その音がその音楽にリンクするのかは全くもって不明。自分のその時「聴きたい」音楽とは無関係に、また「聴きたい」タイミングとも無関係。当然降りてこないこともある。自分の意志を越えたところ(?)で降りてくるそれらをより多く聴きたいが為、亡者の歩みに拍車がかかったことは、治療・療養の観点から喜ぶべきことなのか。降りてきた瞬間、特に予想もしていない音楽であればあるほど、苦痛の中、不意にソセゴンを打たれたあとのような恍惚感(注、入院中実際に打たれたソセゴンは、想像したほどの快感はなかった)少なくとも苦痛の記号を表情の何処かに宿しながら歩くことが基本である亡者の中で、一瞬でも不可解な笑みを浮かべた亡者は、端から見て相当に気持ち悪かったと思われる。
 大好きなQUEENは、何故かなかなか降りてこず、降りてきたのはかなり後になってからで、その時は感動さえ感じたはず。何故か今は朧気にしか思い浮かべることしかできない。