みちすがら

 雲見えず、こんなに明るく晴れた夜に、春の訪れを静かに感じる。肌寒さが知覚を遮らない分、空の明るさの恩恵を十分に受け、より広く周囲に向けて知覚の発散を促す。
 住居と職場の行き帰り、必ず前を通らなければいけないトタン張りの二階家、建物は道には沿わず、代わりに接するのは対して広くもない庭、ところがその庭の草花の多く生い茂ること壮んで、背の高い草木はない代わりに、道と建物とを遮って満遍なく緑の生える庭は鳥瞰的な森の様子と擬せられ、おかげでその建物はやたら遠くにあるように見えた。
 私はその家には誰も住んでいないものと勝手に想像していて、その割には決して荒れた雰囲気ではなく四季それぞれ棲み分けられて盛りとなる庭の様子を無意識の内に楽しむようになっていた。
 その後私はこの庭の歴とした主の有することを知る。大抵は日が傾きかけた時分から日の落ちて辺りの暗くなった夜間、道にここまで押してきたであろうシルバーカーを置いて、草花の剪定を行い、雑草を抜き、新たな草木を植える大分お年を召しているように見える老婆の姿を見かけるようになる。毎日というわけではないが、皆が日の営みの締め括りに入ろうとする時分から、時には雨風の強い日であろうと、ゆっくりと丁寧に庭を手入れする老婆の、私には絶対真似の出来ない好ましき姿に、強くシンパシーを感じ、いつしか行きは草花の姿を、帰りは老婆の姿を気にするようになっていた。
 それは明らかに異常な状況だった。ある日の、雨が激しく降り注ぐ朝、いつものように通りかかった庭の森の上からひっくり返った畳が投げ出されて、彼方此方にキャタピラの轍。トタン張りの建物の二階の土手っ腹に空いた穴からは次に投げ出されるべく畳がその半身を覗かせている。直感的に「ああ、お婆さ亡くなったんだ」と想像。朝から大変悲しい気持ちになりその場を急いで通り過ぎる。一度踏みにじられた草花が元の姿に戻ろう筈がなく、暫く経って、あの二階家と同じ場所にもう少し頑丈そうな別の材質で出来た二階家と道と建物とを遮っていた場所には通行のしやすいように砂利敷。それでも家の敷地のほんとに端の方、ほんの僅かだが嘗ての庭の生き残りが所々残されてはいたが、最早それは慰みにもならないように思えた。残った庭の草花を今度は誰が手入れするのだろうか、建ったは良いが何故かなかなか人の入ってそうな気配の感じられない家の前を毎日通りながら言葉を交わしたこともない老婆のことを思いだしてしんみりとした気分に陥ること度々、行き帰りのこの道はそう愉快なものではなく・・・。
 と思っていたらある日、「いた!」。以前と変わらぬ姿で僅かに残った緑の手入れに黙々と勤しんでいたのだった。おわり。・・・って何だこの話?。