丹下ジムは橋の下。うちの地元の駅前に潰れたボクシングジムの跡があり、この間の大雨頃から雨が降ると真っ黒な顔と服したホームレスが雨宿りをするようになる。ジムの柱に橋脚、似たような柱を持つ歴として地上に建つ、こんな柱のジムに寄りつく人は希だと思うよな建物の造り、人型の付いた湿った段ボールが今日も置かれている。


 先日の雨を避けるに、木々の枝葉ではさすがに不十分と感じたか、うちのアパートのコンクリートの軒下に待避した彼の判断は正しい。ただし、恐らく彼が残り数日の命であろうこと、彼自身がどの程度自覚してこの軒下に宿を求めたであろうか。雨が止んだ後、己の性分を漸く思いだし今から出来る、その身の生まれ出た唯一の目的のために声を大にして叫び出す。「セックスがしてぇ〜。せっくすがしてぇ〜。」恐らく自身はおろか、遙か昔に自身を産み落とした親、先祖でさえ経験し得なかったであろう大雨を避けているうちに時の間隔が狂ったか、それとも自身の予後を悟ったものか、普段なら昼間燦々と照りつける残暑の陽の下でその意味するに相応しい胴間声を夜中堂々とうちのアパートの軒下で叫び続ける。既に子供は寝る時間。その頃になるといつも悲しげな声を上げ出す隣家の神経質な仔猫がいつにも増して鳴き声を上げる。
 朝ともなると、さすがに叫び疲れたか、或いはとうとう寿命の来たか、件の彼は声を挙げることはなく、壁に自らを支える力も尽きて腹を出して仰向けにひっくり返っていた。まあ、仕方ない。その日は、仕事中車で土手を走っていたところ、求愛中で或いはいいとこまで行っていたかもしれないカップルを避けきれずに思いっきり轢ねてしまう。そのまま車のフロントガラスに、息のあるまましばらくへばりついていた一方の片割れはしばらくそのまま恨めしそうな目つきでこちらを睨み、車を停めた後、恐る恐る手で触れてみても微動だに反応せず、まるで無言の抗議をしているように見えるこちらの片割れは、恐らく男だろう。私が用を足す間にどこかへ飛び去ったか、いつの間にかいなくなる。息はあり、動くことが出来たことに安心したものの、顔を憶えられた彼にこの先一生恨まれることを思い、この先の仕事は大変鬱な気持ちで勤しむ。轢ねたのは土手沿いをひらひら舞っているアゲハチョウだけど。
 鬱な気持ちの晴れないまま仕事を終え、その気持ちのまま自宅へ帰る。住民の誰も、彼の姿に気が付かなかったのか、件の彼は朝見たそのままの姿で倒れている。今の私に彼の相手をしている余裕はない。その夜、彼が叫び声を上げることはなかった。
 朝になり、さすがに多少は気持ちの落ち着き、少しだけ制御できるようになった方寸の動揺を従え、件の彼を見直す。相変わらず同じ格好で微動だにしない。このままでは流石に。このようなコンクリートの固まりの上で干からびるのではなく、せめて土の上に。そう思い、これまで一寸とも生きているそぶりを見せなかった彼に触れたその時「セックスして〜。セックスしてぇよ〜。」驚いた。この期に及んでこの声、元気。この期に及んでこれだけ元気ならもしかしたらまだ出来るかもね、この期に及んで。とりあえず、別の場所に運んであげよう。さっきまでただの抜け殻だと思われたその体を抱きかかえようと手を添えると、彼の方から力強く掴んでくる。死に損ないとは思えないほどの強い力で。と、力強く腕で持って掴むと同時に何か細長い管を押しつけて、痛い痛い。人の肌に口吻を押しつけて、鳴く、のはエロい? それにしても彼の口吻のなんと野太いこと、蝶・蚊に比べてのその武骨、これではとても人の血を奪い取る繊細など持ち得まい。などと思う間に尚も、しっかりと両腕で掴んだ人の肌に口吻を押しつけてくる。跡が付くほど痛いが、その程度で人肌は破れない。が、もしもその口吻の先を栄養の充填する真紅の体液にアクセスできれば、武骨な見かけに比して物凄い勢いで自らに取り込むことが出来るのだろうか。
 ミンミンゼミって何を食べるんだっけ? よくわからないので、適当にそこら辺に生えてる銀杏の木に離す。木肌の感触が、セミの本能に働きかけるのか、さっきまで微動だにしなかった彼が木を掴まえた途端するすると上に向かって登っていく。たぶん、この木には何処まで登ってもセミの餌となるような樹液は滲み出ていない気がする。ただ今度力つきたとしても落ちるのは土の上、後は微生物が何とかしてくれるので良かったね。彼の体は直ぐに枝葉に隠れて見えなくなり、すると彼はまた鳴き出す。ああ、頑張るねぇ。今日も朝から暑苦しいねぇ。そう言えば、向かいの家の向日葵が、いつまで経っても枯れないのは何故だろう。