拾遺 新田の永徳寺内 比翼塚二基

 太田市尾島町満徳寺に行ったところ月曜で資料館は休みでした。
 黒字自治体なんだから交代で毎日職員働かせろよとは誰も言わない、近所の土方土木作業員や宅配のにいさんやらタクシーの運ちゃんやらの昼寝の憩いと化している縁切り寺駐車場の向かいは永徳寺というこれもまたお寺でしたとさ。

 比翼塚とは心中した男女の霊を弔った塚だそうで、お七吉三、権八小紫、お夏清十郎等、史上有名な悲恋のお話しに後代の人が供養の意を込めて作られることが多いそうで、上記三組の比翼塚はそれぞれのネームバリューとも相まって今でもそこそこの賑わいと華やぎを見せますものの、本来は死して後も報われることの少ない日陰者としての後生。上州新田郷永徳寺内にも二基、比翼塚が残されてるそうで、何の気なしに入った境内の解説で知りました。ここ旧新田荘は自称「新田の子孫」の徳川家が天下を取ったモンで突然現れた天下人のご意向で裕福になった寺社が多く、ここ永徳寺も御多分に漏れず。向かいは縁切り寺の満徳寺、豊臣家との縁切りのため一時千姫もいたことがあるとのこと、まかり間違えば秀頼公諸共さながら心中と相果てんと為りし所を、幸か不幸か命永らうこととなったおひいさまのおわしましたお寺の向かいのお寺に比翼塚(講釈師の口調で)。もっとも右府諸侯の奥に納まるおひいさまと異なりこちらは名も無き恐らくお百姓の悲恋二つを弔う小さな石像。

利根川に身を投げた二人を憐れみその後生を弔うため地元の人が建てたとのことだがそれ以上詳しくは伝わらない。男、女の何れかが死出の旅を言い出したか定かでないが、身果てても離れまいと互いを結んだ帯か紐は岸に上がって後、両家の親によって引千切られたに違いなく恐らく共に葬られることはなかったのでしょう。それ故に、一つの石に一組の男女。