その百八 千代田区九段北 『築土神社』


 九段の坂、靖国通りから北側に一つ入って、大通りと並行する一回り小さい通りの坂の途中、言わずと知れた将門奉祭の神社、都内では神田明神と並ぶ由緒の深さです。ただ、江戸市中で由緒正しいということは例に漏れず戦災を直に受けた歴史を持つと言うことに他ならず、今ある建物は戦後何度か建て直されたコンクリート造りの立派な建物です。近所は殆ど、と言うか全て雑居ビルのオフィス街、神社も一見完全なビル。よくよく見ると鳥居を覆い被さるように神社会館のビルが建ち、周囲とビルと、風景と鳥居が一体化しているようです。
 ここまででわかるように由緒深いといっても現在の神社にその由緒の痕跡は殆ど認められないに等しい。その代わりなのか、この神社のWEBページには由緒の深さを裏付ける記事が多く、中でも「社宝」の項目にある「首桶」は、築土神社だけでなく将門関連の全ての遺物中白眉と言えるシロモノ、残念ながら戦火による消失を経て今や実物を見ることは叶わない。かつては将門公の「首」と同列に畏怖され*1、フタを開け桶の中を見ることはおろか桶ソノモノさえ見ることは憚られたと言う怪異、何故かWEBではそんなバチ当たりな写真を拝むことが出来ます。それにしてもこのページ、殆どのページが赤と黒が基本でオドロオドロしさを全面に干し出すのが基本の色調に彩られ、Topページに至るやネガ写真の神社正面を赤で塗りたくった画像で飾る、何考えてんでしょうか。
 消失社宝が惜しいというお話しついでにもう一つ惜しい社宝のお話しを。「束帯姿の将門公肖像」。英雄として、あるいはタタリ神として一般に想像される将門公の像とは一線を画し穏やかな表情のまま正装する姿。新皇宣言後に行った朝議を司る姿か、一族郎党に位官を授ける除目を行う姿か、いずれにせよ皇胤の血筋の確かさを顕らかにする高貴の佇まいは伊達でない。藤原秀郷が品定めに現れた際この格好で応対したならその後は如何に? との想像も沸かないでもない。と言うか俵藤太が礼儀云々とは、秀郷の方がよっぽど野蛮だと思うがドウカ。
 ビルに囲まれてコンクリ作りの社が建つ様相は何となく大手町の将門塚を連想。近くに学校多く、九段下の駅から中央線沿いの繁華街方面に抜ける道の途上にあるため夕方のこの時刻神社の裏参道から入り本社の脇を抜けて正面参道を抜けていく学徒が多い。まず彼らが社にお参りをすることはない。手ぐらい合わせていけばよいのに、折角の御縁を勿体ない。一方で、お参りのために敷地内へ入ってくる人はかなり多い。そこはやはり「勝守」の霊験に呼ばれての縁であろう。
 九曜の紋が掲げられる築土神社本殿の隣に摂社として座する世継稲荷。やはり戦火を受け故地より何度かの変遷を経てこの場所に鎮座するのだという。まだ木の新しさの抜けない本殿前にお約束の一対の狛狐は黒ずんで古い。狐だけ古社モノそのまま移動してきたモノか。その本殿の更に奧に小さい祠と体の一部が欠けたおキツネさん。丸みを帯びているので優しさと共に欠けた体が霊獣としての凄味も醸し出し面白い。何より築土神社本殿より奥まって末社染みた謙遜を帯びながらも「世継」の字、新しく木造の社、クセのある狛狐、その全てが実は築土神社に負けない役者揃い。正直、ウカウカしていられないと思う。何がだ?一体。

*1:一説によるとある時期まで将門公の頭蓋骨が収められていたとのこと