その百十四 所沢市大字城 城山神社内『稲荷社』


 武蔵野線南浦和方面から府中本町方面へ、新座貨物ターミナルを眼下に過ぎた辺り、上を見上げると山の上に赤い鳥居が見える。動く電車から眺めても大した高さにある神社なのだから実物は本当に大した眺めなのでしょうと思うと俄然興味が出る。訪問したのは東所沢駅からちんたら歩いてではなく潔くバイク。浦所線の裏道沿いにでっかい看板で「城山神社」の看板が出ていてすぐ解る。行ってみると、あと少しWEB等で調べてみるとする解るんですが、ココ、神社としてより戦国時代の城跡としての知名度の方が高いらしい。恐らくは大石氏によって築かれ、後にその名跡を次いだ北条氏照により整備され、氏照が八王子城を築城し甲斐・西上野方面の防備のため多くの枝城を整備した際の一支城として位置づけられ、更に後の豊臣秀吉の北条征伐に伴って本城の八王子城同様上方勢の大群を前に為す術もなく落城したとのこと。神社の鳥居をくぐるまでに城跡のそれらしき起伏に富んだ堤・空堀に巡らされた造りに往時の面影は十分感じられ、恐らくマニア心を大いに擽られるのだろう。鳥居の先の社務所前にも神社としての由緒より城としての由緒・研究成果が誇らしげに掲げられているところからこの神社が重視しているコンセプトの順位は容易に伺われる。諸事ムダ知識に深く惹かれる事の多い私のことなので当然城跡に興味がないわけではなくむしろ好きな部類に入ること否定はしないが、だからといって今でも面影を残す空堀の堆く堆積する枯れ葉に涎をたらして飛び込んで全身を埋める程変態ではないのでここは適当に見て過ぎる。
 城山神社本殿は、城跡旧本丸跡に鎮座。本丸跡から南方が冒頭に述べた武蔵野線から見上げる位置。神社からは武蔵野線沿線、新座貨物ターミナルの端っこから東所沢駅の少し手前の辺りまで一望。柳瀬川を渡って清瀬の街はほぼ一望の下に望める。この高さと当時は湿地帯で当たろう柳瀬川一帯の天然の要害を頼りに兵は少数といえどもせめて一矢報いんと構えた守将の思惑に反して上方勢は要害に阻まれず攻めやすい北側から攻めてきて城はあっさり陥落、将兵は残らず全滅したとのこと。兵法に照らすまでもなく考える必要さえなく予想できそうなマヌケな作戦の前に同情する気が失せる。そんな死んでも死にきれない城兵達の無念の為す業か城跡の周囲に「血の出る松の跡」とかそのもの名付けられた史跡も残るこの松の跡の前は道が狭くて曲がりくねり見通しが悪いので普通に歩いていると轢かれそうになるため気をつけた方がよい。
 先程から神社に対して口汚く悪態をつく理由は、本殿より醸し出す国家神道のニオイがどうも気に障るためで、社前記帳ノートの隣に捧げられた千羽鶴とか参拝者の好意を伝えるモノも多く見られ何も気持ちをささくれ立たさずとも良さそうなモノだが、一度起きてしまったこの気持ちだけは仕様がない。なので本社への奉納はよしにしておく。ずいぶんと偉そうですね。代わりに目を付けたのは、本社の脇から更に小高くなった所にある稲荷社。つまり、この神域で一番高い場所、両端赤い幟で彩られた階段を上りきり出迎えるメイン狛狐の眉が昭和のアイドルみたいに太くて楽しい。稲荷社は小高くなった丘のてっぺんに鎮座するが、その周囲には小さい祠が幾つも座す。かつての神道政策の名残、統制のために周辺の神社を一ヶ所に集めてあまり力のない神社hこのような小社として残らざるを得なかったのだろうが、或いはかつての城に奉られていたと思われる社・祠の子孫が混じっているかもしれない。最も本社の祭神は八幡神なのでこの本社が城の守り神であった可能性は高いのだが。けど、もう決めたので千社札はお稲荷様に奉納。他に城の裏手、先程述べた「松跡」の近くにもう一つ小さな社があり、その周囲には不動明王や前鬼・後鬼を従える役行者の石像あり。銘がないのでいつ頃のモノかは分からないが、昔からのモノであるのならかつては山岳信仰の聖地であった名残か。社より偶像が好きならこちらを拝めばヨイ。私はどちらも好き。