尾張名古屋は城で持つ、道央山裾人で持つ

 その1 「壮瞥町郷土史料館」 

 この日本当は胆振線の跡でも辿ろうと思っていたのですが、波穏やかな洞爺湖や未だに煮え煮えの昭和新山とかをぼーっと見ていたら大分時間が経ってしまい、おまけに前々日の大嵐の中バイク強行したのがたたって廃線跡巡りの参考資料がびしょびしょになった挙げ句、川原に落ちてるエロ本のようにページがくっついて役に立たなくなっているのが判明したので廃線跡巡りは諦めました。

 そん中で唯一アプローチできた旧胆振線の遺構は昭和62年の胆振線廃止時より更に古い胆振線の遺構で、昭和新山育成のとばっちりを受けて半端じゃなく線形が曲がってしまい戦時中の物資不足の中泣く泣く放棄した言わば「旧々胆振線」の遺構です。

 伊達市内から壮瞥町内にかけて旧胆振線沿いに走る道道519号線沿いに登場する「昭和新山鉄橋遺構公園」と云うのがそれで、道道沿いにある駐車場からちょっと登った所にあり、一応町の文化財扱いになっていますがはっきり言ってわざわざ観に来る人はほとんど居ない様子です。

 見ての通り鉄道の遺構と言うよりは大自然の驚異を伝える遺構と云った方がよいので廃テツ系にはあまりウケは良くなさそうです。

 その後、道道を北、摩周湖方面へ。もうこの時点で遺構探索は諦めていたのでどこ行こうかと思ってたら「壮瞥町郷土資料館」の看板が見えたので近付いてみると

 町の資料館はほとんどが郷土出身の大横綱北の湖を顕彰する記念館にになっていて、抜けるような青空に向かって放たれる虫酸が走りそうな相撲甚句を浴びて

 中に入ると資料館の半分以上が北の湖関係の資料が占拠。本気で北の湖

 角史に残る大横綱だし、恐らく現役時代から地域に有形無形の多大な貢献をしたのであろう、或いは資料館設立に当たっても莫大な寄付したのであろう、地元町民としては恩返しの意味も込めて郷土資料館の前面に北の湖を押し立てたのだろうと思うのだけど、北の湖さんあのご面相ですからすんげ〜ごり押ししたんじゃないかといらん勘ぐりを持ってしまう。あの顔で迫られたらコワイだろ、普通。けど私、裏も表も今の騒動なんかカワイイもんです位に大相撲全般がドロドロしてい北の湖現役のあの時代、好きですよ。

 そして嬉しいことに、郷土資料館の一画に設けられた胆振線の資料コーナー。「鉄道の資料間際まで化粧まわしが迫っている」とか言わないで、大体テツで名を成したからって郷土に貢献なんか出来る程稼ぎを得られるワケねぇんだから、ここは北の湖さまのお情けに感謝しましょう。

 北海道の廃線は大概がそうなのですが、胆振線羊蹄山の麓から発して有珠山昭和新山をぐるっと来て、太平洋に至り、洞爺湖はさすがに見えなかったかな? いずれにしても結構な風光を車窓から得ることが出来たんだと思うと大変もったいない。車窓ともったいないだけでは鉄道経営など成り立たないこと充分承知の上であえて言っておきましょう。

 壮瞥町名物、北の湖胆振線と来て絶対に外せない昭和新山有珠山噴火と並んで昭和新山形成の様子は資料館中多くの資料展示に割かれています。文言を見るとわかるのですが後に昭和新山が出来ちゃって人住めなくなっちゃう集落、昔からやることなすこと火山活動によって翻弄されたあげく遂に山のてっぺんになっちゃったと云う不謹慎だけど笑える説明書き。

 笑ってしまうと言えばこちらの記念写真、一人だけ「不詳」の身元不明。真面目な写真だけに可笑しいし深読みすると怖い。 

 昭和新山と言えば実は壮瞥出身者で一番の偉人と思われるアマチュア火山研究家の三松正夫さん。昭和新山の個人的持ち主でもあります。私がこの人について初めて触れた伝記は手塚治虫『火の山』と言うお話で、手塚先生の過激なエコ思想、迫害の苦難に遭う主人公、好ましき無頼漢の存在等手塚テイストに満ちた良作です。この漫画からは三松さんのかなり強烈な人生が垣間見えますが実際にも「世界で唯一、平地から成長する火山の定点観測を為した人」と言う世界的お墨付きをお持ちの方です。その割には当資料館で扱いが小さいですが、それは北の湖が強いせいではなく三松さんにはきちんと子孫が経営される自前の記念館をお持ちなのでそちらに譲ると云うコトなのでしょう*1

 壮瞥町の「壮瞥町」としての歴史は云うまでもなく開拓から始まります。史料館ではその初期の開拓時に開拓民達が仮の住み処とした小屋、そして何故かお約束のヒグマの剥製、

 かつて町内で使われた懐かしの道具の数々

 最後にヒグマ以外の「仲間達」、現在近辺にヒグマはいなくなってしまったのでしょうか? 開拓前にはヒグマと共に生態系の頂点に立っていたエゾオオカミもいたかもしれませんが剥製はありません。当然のコトとは言え残念です。

 どーでもイイけどなんで出口にこんな貼り紙貼るか? どーせ貼るなら入り口に貼れよ。

 売店は雑誌「大相撲」、平成以降のバックナンバーが結構充実。また北の湖関係始めとして手形サイン入りグッズ等、私には価値はわかりませんが結構充実している印象です。
 詳しくは書かれていませんが、北の湖さん、最近の有珠山噴火の際も恐らく多大の寄付を地元にされたんだと思います。地場産業の軒並み壊滅状態という現在の北海道、恐らくは壮瞥町もその例に漏れないと思われますが、この郷土に偉大な人物を生み出したことで現在有形無形の恩恵を受けている、まさに「人」を生み出すことこそこれからの時代必要なのだと、ある意味時代の先を読む教訓を含んだ史料館がここ二つの火山の麓にはありました。

 横綱北の湖記念館・壮瞥町郷土史料館公式ホームページ→http://www.town.sobetsu.hokkaido.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1059

 その2 真狩村 「細川たかし記念像」
 洞爺湖方面からニセコ、岩内へ抜けるのに羊蹄山の麓真狩村を通過するルートを取ったのは全くの偶然で、右手にずうっと羊蹄山が見えて景色がヨイだろう、位のコトしか考えていませんでした。

 南から真狩村の市街地に進入すると、道路がひたすら真っ直ぐ、羊蹄山に吸い込まれるように延びるこの道はなんか好きになりました。

 その真っ直ぐ延びる道沿いにある町内行き先表示。「細川たかし記念像」「細川たかし記念碑」、数ある行き先表示の内半分を細川たかしで占められています。演歌に興味はなくても演歌歌手細川たかしの名前くらいは知っていよう、まさに自分のことですが、真狩村内の「細川たかしなんとか」、これはどういうコトなのでしょう?
 モノは試しとまずは行き先にある「細川たかし銅像」、表示に従ってこちらにまずは行ってみることにします。

 お目当ての場所はすぐに見つかりました。もうここまで来たらイヤでもわかるように、真狩村はどうも細川たかしの出身地らしく、それで村を挙げて細川たかしを応援する一方観光資源としても一肌脱いでもらってる、そんなところなのでしょう。軽い気持ちで訪れた「細川たかし記念像無料駐車場」には農産物直売所兼細川たかしグッズ販売所。市街地に至までに途中広大な農地を通過しましたので農産物が細川たかしと並ぶここ真狩村の名物、二つの名物を細川たかしの歌をバックに同時に販売している、全く無理のない光景です。
 それにしても観光バスのスペースまで作る必要があるのだろうか?

 目当ての「像」は無料駐車場兼販売所の裏手、川沿いの公園の中にある様子で背景に雄大羊蹄山が望める一方、住民の方々がのどかに散歩を楽しむ、そんな公園の中にご丁寧にこのような看板。

 看板など無くともすぐにワカりました。羊蹄山を背景に気持ちよさそうに歌う、これが「細川たかし記念像」。

 台座には銅像の由来、言うなれば細川たかしが歌手として大成した後、故郷を忘れず真狩村観光大使のような役割を担ってくれていることに対する感謝を込めて町として建てたこと当時の町長自らの手でしたためられています。
 この村も当に人を生み出すことによりその恩恵を受け、人・土地共にその恩を忘れない土地柄なのですね。ちょこっとイイお話に触れたような心持ちでこの場を離れます。

 ・・・何かがおかしい。何かが引っかかる。何かが違う・・・確か、あの銅像の場所を指し示す看板には普通の銅像を指すには見慣れない言葉が出ていたはずだ・・・。もしや自分は大変な思い違いをして、大変オイシイ事象を見落としたままこの場を去ろうとしているのではないのだろうか? 
 そう思うと矢も立てもいられず急いで再び銅像の元へ駆けていくと・・・

 銅像台座の向こう側になにやら手形様の模様、手形の上には細川たかしのヒット曲の名前、そしてスピーカーのような溝、コレはもしや・・・

 大当たりです。黄金の手形に手を合わせると途端に像は手形に書かれたタイトルの歌を大音響で歌い始めました。のどかな公園が一瞬にしてデパートの屋上になりました。突然の喧噪にイヌがわめく、そのイヌを連れている家族連れがこっち向く、まさかと思っていたそのまさかの事態を受けて私は軽いパニック状態です。とにかく注目を集めるこの場を離れなければ・・・。

 歌は一番部分をほぼ歌い切った後に終了、再び公園はのどかな静寂に包まれますが、既にこの公園の静寂がいつでも破ることのできる偽りの静寂と看過した私にとって、静寂とは遠く無縁の、羊蹄山雄大さこそがこの公園に当に相応しい、ほんの一瞬の出来事で世界が変わった瞬間を体験として経験したオドロキに満ちていました。その興奮冷めやらぬまま二曲目、「矢切の渡し」(ちなみに一曲目は「北酒場」)。しっかし、トンデモねぇもん作りやがって。できたのいつだ?平成6年? バブルが遅れてきたのか? 巨大なハコモノを造れず「歌う銅像」になったのか? いずれにせよ今に至って大変賢明な選択であったわけですね、少し感心。

 都合三曲、立て続けに青空の下羊蹄山バックの細川たかしワンマンショー(一番だけだけど)。さすがに興奮もやや治まって来るとある疑問が浮かぶ。私の様のな外来者ではなく地元の人達はこの銅像に対してどういう扱いで接しているのだろうか? 先程のイヌ連れた家族連れの反応が少しなんだかな反応だったので地元ではむしろありがた迷惑がられているのではないか? 確かに夜中とかいきなり歌い出したら迷惑この上ない。治安には良いかもしれないが。
 幸いにしてその疑問はすぐに解ける。川の向こうの方から公園内をウォーキングして回ってきたと思しきおばあちゃんが銅像前にあるベンチで一休み。汗を拭って一息つくやおもむろに立ち上がり手を後ろに組んで一直線に銅像へスタスタ歩きその直後、なんの躊躇もせず細川たかしの手形に手を合わせた! たちまち響く「北酒場」。運動最中のおばあちゃんのバックミュージックは細川たかし、村民に対して縦横無尽に細川たかし。素晴らしい。

 私の感動を他所に「北酒場」の一曲終了、続いておばあちゃん、二曲目に。そして三曲目・・・と行くはずが二曲目の最中に団体客と思しき大勢の人達が登場。「あっ、あれじゃないか?」とか言いながらどやどやと銅像の周りに集まり始める。その間におばあちゃんは遠慮して身を引いてしまった。

 先程抱いた疑問、「地元民にとってどうなのか?」に続いて「観光バスの駐車場なんか」と言う疑問も見事に打ち砕かれる。ゴメンなさい。正直細川たかしをナめてました。
 団体客はここで記念撮影。やっぱ日本で余計なカネもってんのは圧倒的に中高年なんだなぁ、と云うような感想は置いておいて本当に観光バスで乗り付けやがって、おまえらが日本をダメにしたクセに、とか云う感想もひとまず置いておこう。ただこういうムチャなカネの使い方が出来るのは中高年しかいないというのもよく判っているので。
 
 本当に観光バス停まってやがらぁ、手形スイッチを押そうが押すまいが関係無くずっと細川たかしの歌が流れっぱなしのグッズ兼地元特産品即売所を後にして

 向かったのはも一つ、先程の行き先表示板で4キロほど先と記載のあった「細川たかしを讃える碑」。牧場農場を越えた先の公民館の一角に先程のいつでも一瞬にして賑やかになってしまう銅像とは全く対照的にひっそりとした佇まい、裏書きにこちら建てられたのは平成2年の記載正にバブルが崩壊して日本経済がドツボにはまる間真狩村では「記念碑」→「唱う銅像」にバージョンアップしているワケですが、一体何が起こったのでしょうか、そんなに興味はありませんが一応「興味は尽きない」としておきましょう。

 「細川たかし記念像」

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 細川たかし記念碑

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 その3 「長万部町民センター」
 日は変わりまして、この日は長万部町を通過することになりました。嘗ての鉄道の要衝として巨大な駅構内に名残を残す長万部駅や2軒に1軒は廃墟化しているドライブイン通りが虚しい国道5号線とか歪んだ見所たくさんあります中、長万部駅近くに町の資料館「長万部町民センター」があると云うコトで行ってみることにしました。これまで「壮瞥町北の湖」「真狩村細川たかし」と出身人物を大いに顕彰する北海道町村部の傾向がなんとなく判りましたので長万部でもやはりそうなのでしょう。長万部町で顕彰しているのは果たして誰なのでしょうか?由利徹

 全然違いました。長万部町民センターで資料館を設けているのは和田芳恵という人です。文学者ですが私この人のこと細川たかしよりよく知りませんし別にボタンを押して歌い出すレベルのインパクトもなさそうでしたし、閉館間際だったのでスルーしました。スイマセン。

 「長万部町民センター」はどうやら鉄道で保っているようです。

 函館本線室蘭本線、そして今は無き瀬棚線関係の駅名表示、サボ、表示幕等々、長万部地域の資料館には相応しい品揃えとなっているのですが

 一眼のコレクションがあったり

 鉄道模型が登場して

 そして何故か首都圏通勤列車の路線図。まさか北海道に来て松戸とか取手とか酒盛り列車*2の駅名を見るとは思わんかった。

 どうも、これらのコレクション、嘗て個人コレクションだったのをそのまま資料館に寄付されたんじゃないかと思われるような中途半端さ。ただこれら全て個人蔵だったモノだとするとスゴイ事なんですけど、多くの資料が何の解説も付さずにただ並べてるだけって資料館としてナメ過ぎだろ? 

 何だか宝の持ち腐れです、長万部町民センターの鉄道資料。一方で

 「長万部町の歴史」の方が「鉄道の町」としての長万部の歴史が詳しく書かれております。コレでますますあの資料が後付けで置かれた感が強くなる。まあどうでも良いけど。写真もどうでも良くて全然関係無い、表情が素晴らしいアシカの剥製。

 本当に一部だけ、無き瀬棚線の写真と申し訳程度の解説がありました。私が見たかったのはこんなのだったんですけど、仕方がない。

 更に充実して欲しかった資料、長万部町内で嘗て稼働していた鉱山、「静狩金山」について。当方何故かこのところ嘗て日本で隆盛を極めたこの穴掘り業に強い興味を抱いておりまして、この静狩金山の存在はこの資料館で初めて知ったのでそのこと自体は収穫。ただしその場所がどこにあったのかはっきりと示されては居らずその点は強く不満。それにしても、この資料にあるように抗夫*3を募集する煽り文句って多くが勇ましくてすごくイイですよね。

 長万部町民センター、料理する材料には充分すぎるほど恵まれているのに料理の腕が乏しくこんなんなっちゃった、そんな印象です。仕方がないと言えば仕方がないのですが、それもまた味と言えば味で、他にはない強みと言えば強みです。

 長万部町民センターを訪れる機会があれば見学後その足で嘗ての留置線が広大な広場になってしまっている長万部の駅周辺を回ってみると良いです。

 どんな感想を抱くか、それは人それぞれでしょうが、きっと長万部町民センターと長万部駅(周辺)はセットで見て初めて用を成しているような気がします。お金に余裕があれば長万部駅前に元祖というカニ飯屋がありますのでそこで舌鼓を打つも良いでしょう。ただし7時で駅前真っ暗です。

 長万部町民センター→http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/4500.html

*1:三松正夫記念館の存在は帰ってから知りました。現地で知っていたら見に行っていたのに、ここら辺の不親切がやはり、なのでしょうか

*2:常磐線

*3:つまりステゴロ上等