伏見稲荷大社 お山その2 「いけ」

 (その1→http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20120127)
 どうも、伏見珍宝神社の奥の方から何処かはわからないところに通じているようでしたので、気を抜くとこのままお山からはじき出されてずっと遠くの方に行かされてしまったかもしれません。あの何とも云えない神秘的冷気を湛える神社の雰囲気はそのまま取り込まれてお山行きまで諦めさせてしまう様相を見せておりましたが、それをなんとか振り切り伏見稲荷お山行き参道本道(?)へ無事復帰するコトが出来た理由はひとえにお山参道の本質未だ垣間見てもいないと誰かが心の何処かで囁く声が聞こえたからにちがいありませ何を言ってるんでしょうか。

 お山行き本道に戻ると再び数多の鳥居のお迎えを受けます。「よく帰って来た」「ようこそいらっしゃった」「本番はここからだよ」とまるで鳥居が迎えの言葉をかけているような、などという電波なコトは間違ったって言いやしませんが、今までその片鱗のみ垣間見えていた「お山」の姿が少しずつその正体を顕し始める地点、この場所がそのような位置に当たるコト

 ここから堰を切ったように顕れる「鳥居」「キツネ」そして「お塚」が何よりの証拠として参拝者に教えてくれます

 さて「お塚」と呼ばれる信仰形態とはどのようなモノなのかというと面倒臭いので適当にググって下さい。大体からして専門家でもない無名の一ブログ主が他から聞き囓った半端な知識など何の役にも立たないし。

 「お塚」その他オプションの詳細はあともかくとして、「お山」の途中にこれら山の如く怒濤に鎮座めします「お塚」の様はそれらに寄せる「お塚主*1」の強い思いが感じられる。屁理屈ナシにソコに存するのは個々信仰の証明。

 その圧倒的量が表す強固な信仰心の一方で個々遊び心、と言えば語弊がありますがその、なんと云うか、畏まって「奉祭」と称するにはあまりに自由過ぎる、時に愛着たっぷりのお奉りの仕様がまるで遊んでいるが如きに見えて

 何とも微笑ましい

 私はこの参拝の後年、兄弟分の豊川さんへお参りする機会に恵まれたのですがそのついでに訪れた某駅近く廃道の先に廃車を見つけその不条理さに衝撃を受けて廃車の持ち主と思しき店の名前を叫ぶコトになるのですが*2考えてみればこの場所に原チャがあること、しかも現役で、こちらの方がよっぽど不条理だと駄文を綴りながら悩んでいます。「お山を原チャでどうやったら来れるの?」ニュートラルすぎだろ〜

 ニュートラルと云えばそのお塚周囲に納める信仰の形態も大変なニュートラル。所謂神仏習合を未だに感じさせる偶像のラインナップ、お不動さん多し、この場所厳密に神道ではない、元々日本人は信仰ニュートラルを是としてますがその日本人でさえ時々奇異と思えるお山の不思議

 時の過ぎゆくことはおろか時代の居場所さえ失いそうなお塚の山を一つ越えてその先久々に所謂風景らしい風景。

 池のカモがするする泳ぐ、ホントは水面下で激しく足ばたつかせてるとのことですがその様伺えないのでカモはいつでもするする泳ぐ。

 と、そのするするさんの向こう側の岸、今度は何かごろごろしているモノに気づく。するするに対してごろごろ、

 そのごろごろ見逃す我ではない。常日頃から抜け目なく生きようとしてもなかなかできずこういう趣味の世界にのみ抜け目なくても生きるに何の足しにはならない。せめて花京院典明くらいの抜け目なさがほしい思う常日頃

 あまり季候について触れずもっとどーでも良いことばかりを紹介して浮世離れを自認する当記事ですが、珍しく「この時曇り、日差しが届かず寒かった」コトをココになぜ述べるかと云うと、このごろごろはこんな寒いお日様も足りない日和になぜ寒そうな池のそばでごろごろしてるのかな、丸くなるならもっと丸くなれそうな所があるのではないのかな

 そんな思いなど知ったこっちゃ無いとただごろごろまるまるねこ、幸いなことに私の他にこのごろごろの存在を気づくモノなしざまあみろ。通りかかる観光客皆ことごとく通り過ぎて行くばかり、池端に建つお社の裏側向かって年心にファインダー覗いている中年の姿に時折不思議そうな顔するもその真意に気づく者皆無。わかるまいわかるまい。

 まあそのお社(熊鷹社)というのがひょいと覗くといきなりこんな風に怖可愛いキツネさんが大勢で守っておられるので、先のお塚で持ってかれそうになったいろいろな何かをようよう池の景色で回復させ、たと思いきや次にいきなりこんなんお社に出くわせば再びいろんなモノ持ってかれそうな、

 確かにネコどころの騒ぎでない。誰も騒いでないけど。

 こういう怖いおきつねさんに出会ったときは御灯明に限ります。かわいい*3ねこに出会ったらもふるのと同じ感覚ですね。幸いにして伏見稲荷お山のお塚お社の集まる辺り必ずといって良いほど主に供物を分けて下さるお店があります。ついでに云うとこちらのお店、お塚奉納の斡旋もしているそうです。今はネット検索で良い場所一発だそうです。恐ろしい世の中です。
 いつものように前置きが長くなりましたが要するにそのお店で御灯明を購入したのです。お山で初御灯明なのですからココは奮発して絵入りの和ろうそくを。お店の方お土産に持ち帰ると思ったらしく丁寧に包もうとするのを止める。少し変わった人に見られたようです。その勢いで池の端、丸まってるねこの由来を尋ねるとやはり捨てねこらしい。もう一匹くらいいるらしい。困るけど不憫らしい。ねこ幸せらしい。

 わざわざ怖いお顔に作ったこと、やはり霊験と神威を表してのことでしょう。このお社の裏にある池は後で大社の公式サイトを調べると「新池」と云うらしく「行方のわからぬなった人を探すとき、池に向かって柏手を打つとこだました方向に手がかりがある」なのだそうです。この場所にネコを捨てるとは何の皮肉か、これがイケズと云うやつか、いずれにしても洒落にもならん。(続く)

*1:なんと云うかワカランので仮に適当にこう呼びます。至極もっともらしく「寄進者」と云う言葉もありますが、所謂「寄進」後も、「寄進者」はお塚をやりたい放題自由に奉っている様子なので「寄進」と云う言葉はもっともらしくないように思えます

*2:http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20120618

*3:かつ無防備な