伏見稲荷大社 お山 その3 「おあげ」

(2年くらいほったらかしてましたがhttp://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20120625の続きです)

 只今私が召し上がっておりますのがおうどんです。お揚げ入りのいわゆる「きつね」です。場所は伏見稲荷大社お山内のお茶屋です。

 きつね参道できつねうどんを食す、きつねのお山に来た一種のステータスとも思い朝食とも昼食とも早おやつともつかない時間にきつねを食してます。図らずもきつね尽くしに足を休める茶屋、便宜上きつね茶屋と呼びます、キツネ。

 きつね茶屋にはたぬきがいます

 きつね茶屋には年季の入ってそうな柱時計があります

 きつね茶屋には山肌に沿って建ててるためか更に下に降りる階段があります

 二言目にはきつねきつねとまるできつねを揶揄している様に見えますが、そのいちいちきつね茶屋の絵になる様子に惚れ惚れ、愛でることの照れ隠しと思っていただければ。ただ惜しむらくはきつね茶屋、きつねそのものの姿無く、ならばときつねうどん食すおのれが身をもってきつねとなればより絵になるだろうかそのきつねになる術の知らぬ事、数寄の知らぬ身を恥とす数寄なのか? ともかく身は只の凡身紛うことなくきつね、たぬき、はたまたねこの如く福を招くこと能わずこの場所にありて虚しく貪るばかり。かと思いきや、このお山行きの参道面した縁座敷にてうどんを食う様知らずに絵、とまでいかずとも食し始めて後二組ほど新たな客のわざわざ当家を選びうどん求めて暖簾を潜るは参拝道すがらきつねうどん食すの福を暗に喧伝する役得ていると自負す。ただしその二組悉く暖を得るべく座敷に奥に座を求め当方一人縁座敷にて凍える。うどんを食すは温を得るためなり。

 日、やや高くなり山際参道ほぼ陽で覆われ参道の往来併せて増える。時期晩秋更の平日、お山をそぞろ歩きするは当方寄りたる旅姿と思えばさにあらず、往来半数は普段着と似た装いに歩き慣れたる風。歩き慣れたるに混じるかの如く黒猫或いは飛脚の紋、その、さも行商の荷と身紛う様な長い背負いの行き来を合図に茶屋を離れる。繰り返す様だが便宜上ここをきつね茶屋と呼ぶ。

 まあ何が言いたいかと言えば「参道沿いのお店でうどんを食うのはただそれだけで風情」というコトです。

 ここらから久々に林立し出す赤鳥居の群れの合間にしばしば現れる各お茶屋、私がおうどん食うのにこちらの御茶屋を選んだのは全くの偶然、ご縁があったが故だと思います。先の記事にも紹介した様にきつねでもてなす他お茶屋のお仕事の重要なお仕事として「お塚」奉祭希望者に「お塚」の場所をご紹介すると云う更に、恐らくはこちらが本業と思われる、重要なお仕事を仕切られております。信者の方にお山ご紹介召しましたご縁より信者の方の御参拝の際憩所とすることから以後並々ならぬ繋がりとなる様子、このようにその縁を示す年季の入った棟札掲げるお茶屋も多く、「講」の名残とも思われる、或いは威までも現役の「講」もあるのかもしれない。「お山」に「お塚」の「講」、鳥居の林立が再び始まるに合わせて再び始まる「お塚」の集塊、お茶屋はその集塊に接して建つこと多くやはりそれぞれの林立お塚を仕切っておられるのが至近のお茶屋であると思われます。今風に言うと利権ですね。利権というと非常に味気ないですがそれが何代何十代も重なり鈍色の映えた頃になると利権という言葉が家業という言葉に変化するのがとても不思議です。お茶屋が周縁仕切る様は大相撲を彷彿とさせますがあちらも元々は純粋な神事でした。

 ただ、山中くねくね道を踏み分け結構な段数の階段を登った後得られる一片の信心を健気に守る様は間違っても利権などと云う手垢まみれの言葉に例えることなどできようありません。あからさまに利権と読んで差し支えないのは例えば信濃町とかのカルトまででよいでしょう。カルトに対してはあからさまにあしざまで何ら不都合はないと思われますがあからさまにおおっぴらにそのものの名前を挙げることは却って不都合であるのでなかなか世の中不条理に上手くできてます。門徒信者の数だけ利権利権、今度はどうしてかとにかく利権と言いたい。ああ利権利権。

 お山行きの道中別にそんなことを考えていたわけでもないのですし、どちらかというといつ果てるともしれない段差を踏むこと第一と考えて少なくとも何も考えず廃鉱跡とか廃道とかを歩いている時と比べて比較的無心に歩いていたと思うのですが、何故か私より一回り以上は歳を行ったと思しきお山慣れした方々に次々と抜かれてい行く事多く、そのお山慣れの皆様方悉くまるで買い物ついでにちょっと其処まで出てきますわ、といった感じの出で立ちと見せかけて足下に目をやると結構気合いの入った履き物であることが多いのが慣れと云いましょうか玄人じみていると云いましょうか、何故そんなに足下が目に付くかと云うと丁度段になっている場所で次々追い抜いていくモノだから自信の目の高さに足下が来ると云うワケでして。

 そんな健脚な皆様に追い抜かれて、私が追い抜くのは精々が家族連れの外国人くらいなモノで、京都旅行中の外人さんは早い内から伏見稲荷お山御参拝と云うチョイスが感心させられます。でも私より歩くの遅いです。杖持った人よりも遅いです。何故か。

 経験上そろそろあまり何も殆ど考えずにお山行きを敢行しちゃったお山行きに適したと思えない足下の、ひどく後悔をした顔ででもどういう訳か登るのをあきらめないと云う風なご婦人を追い抜かして行ってもよい様な気もしますが、そうこうしているうちに背後遙かに開ける場所に到着。そして辺りにも当然の如くお塚とお茶屋。せっかくお山に登ったことの副作用である眺めのどーのこーのを考えればここらできつねの或いはいなりの聖餐を頂いた方がよかったのでは、などととは寸分も思わない。(つづく、たぶん)