夢十夜 第六夜 運慶が護国寺の・・・・

浅学にして五味太郎先生の、仕事はおろか名前さえも存じ上げず、先日ネイキッドロフトで行われたイベント『山田玲司プレゼンツ「絶望に効く薬」公開収録トークイベント』で初めて、当然短い時間内での出来事でしかも私自身はまたもや「傍観者」としての立場からなので極めて断片的ではあるが、その人となりを垣間見ることができた。基本的に、今もってこの人のこと、少なくとも作品等に触れてみるなどして理解しているわけではないので当然「批評」的な生意気な感想をここで述べるつもりは毛頭ない。ただ、少なくとも短い時間内で十分に興味を引かれる程魅力的な、いろんな意味での天才の匂いを感じることができる人物だったということだけ述べておきましょう。まず作品を通して触れるのはこれから。
繰り返すようですがここに書かれていることはあくまでも「私見」ですので。

トークのメインは前半、ロフト席亭平野悠さんへのインタビューなのですが、ロフトプラスワンに通ってれば、もしくは興味あってこの人のことを調べれば出てくる話も多いので割愛。機会があったら。決して悪意があってのことではなく調べても出てこない話も色々出てきたのですが、マンガにもなるし山田玲司先生がどう料理するのかというのもあるので、ここで傍観者が余計なことを言う必要はあるまい。

五味先生の話はいちいち心に染みる。本人としては「そんなに大した話ではない」とでも言うかもしれないが・・・。とりあえずその中から「ある種の才能」についてのお話。

たとえば絵でもって大成し、食っていけるようになるには、そのための才能があって初めて可能なのであって、才能のない人が努力したところでどうにもならない。大体才能というものの中に「才能を持って、なおかつ必死に努力をする」事も含まれているのだから。五味先生はホームラン王王貞治の例えを出して説明している。(「本人もよくわかっているのにナボナのCMでは正反対のこと言っている」とネタになってしまっていたが)
要するに、ある種の職業はそれに適した才能を持っていなければ大成せず、適さない者がどんなに努力しようが無駄である、ということ。五味さんも、山田さんも、そっち側の人間だから、まあ、説得力はある。大人の人が、お父さんお母さんがみんな知っている、気付いているけどはっきりと言わない真実。
別に何ら真新しいことではないのだが、一番心に残ってしまったな。「自分も気づかない振りをしていた」一人だったから。

ユメ十夜』を観たのは確かその前々日位。事前に小説の方を読み直してしまうと面白さが半減してしまうと思い、確か小学生くらいの頃初めて読んだ漱石の小説そのままの記憶で挑んでみた。開演の時点で大体の話の内容を憶えていたのは「三夜」と「六夜」と「十夜」。映画の方の第六夜が、卑怯なくらいのインパクトを与えたのはそのせいだけではあるまい。「運慶が今日まで生きている理由を悟った。もうだめぽ。鬱だ氏のう。」
運慶が、まるで魔法のように一介の木石から彫り出しているように見える仁王像は、初めから木の中なり石の中なりそのままの形で潜んでいるのであり、運慶は鎚と鑿の力でもって「掘り」出しているに過ぎない。一見万人に容易に行えそうなその所為は、実に運慶だからこそできる所為であり、すなわちそれこそ「運慶」が「明治の世に生きる」理由で、仁王を彫り出すことは運慶しかできない。「運慶」の「運慶」たる所以だろう。
平成の御代、万人は運慶の為す様を、護国寺山門前ならぬPCの画面に浮き出た文字列を介し、一瞬、我も運慶なりとの名乗りを挙げることこそ容易に見えて、建久の御代から明治に至り運慶が存在し続ける真理は些かも揺らがず、再び文字列の奥に隠れる様、容易に受け入れ難くも理である。

以上は、「『ユメ十夜 第六夜』を観た後、五味先生の『能力についての話』を聞いたら私の頭の中で二つがリンクした気がしたので、無理矢理関連づけた感想のようなもの」でした。

五味先生の絵本はまだ読んでないけど、これは読まなくてはいかんだろう。上記イベントの中で言っていたけど「子供に読ます代物ではない(先生は絵本すべてについて「子供が読むモノではない」と述べていたが・・・)」ことは確実なのだろう。ただし、どうしても、子供の無限の可能性を信じたいと言うお父さんお母さんは、自分の可愛いお子様に読み聞かせてあげると良いでしょう。可愛い我が子を信じることができるのはあなた達だけなのですから。

長ぇ。