自己愛の権化

 「『少女コレクション序説』という秀逸のタイトルを考え出したのは、自慢するわけではないが私である。おそらく、美しい少女ほど、コレクションの対象とするに相応しい存在はあるまい、と考えらたからだ。・・・(中央公論社刊 中央文庫 澁澤龍彦著『少女コレクション序章』より 以下引用文同)」この書き出しで始まる澁澤先生のこのコラムはこの随筆は、少女を募集物としてこよなく愛するに至る男性の本能を、「私は少女の剥製、少女の標本をつくることを読者諸君に教唆煽動しているわけではない」と断りを入れておいて、間接的に、直接的にな方法ではなく(件の随筆に述べられているように直接的なそれは犯罪者の範疇であり、ここではそれを述べない。また、そのことにおいて澁澤先生の書を引き合いに出すのは相応しくない)形を変えて、古今、それを目指した諸兄がいかな形を持って成し得たかを自らをも例に挙げながら述べている。当然「序章」にすぎない本編の役割として、それ以上に例え・考えを掘り下げて語ることはせず、それ続く以下の随筆にそれら「少女愛の代替の標本(と言っても当然澁澤先生の興味のあることのみを自由に述べているのだが)」に或いは詳細述べられている。
 「美少女の標本」の代替として「人形の蒐集」は、件の書、例に挙げた随筆だけでなく後に続く随筆でも度々登場するテーマ。澁澤先生自身も自らの「少女愛」を満足させる方法?としていくつかのコレクションを持つのは有名な話である。先に述べた随筆は最後に「人形愛」について述べて終わっている。その最後の文句「人形を愛する者と人形とは同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛なのである」という秀逸の文言で締めくくられている。断っておくが、いくら秀逸の文言の結びとはいえ文章全体の流れを読まなければこの言葉の真意が間違って伝わる恐れもあるのであしからず。
 少女愛の代替として人形を蒐集する事は、上記の理屈で言うと極めて健全と言える。最も今の世の中何が健全で何が健全でないのか明確な定義・区分がないのが現実であるのだが、その意味で澁澤先生の論ももはや古典に当たるかと言われれば決してそうではなく、自由の名の下に無責任を謳歌するする諸君が自らの動機に何ら説明をできないこと、知的には却って退行する者世に増えたる感がある。何が知的で何が知的でないと言う論についてもまた微妙な問題があり、このような事を言おうものなら「考えて何の役にも立たないことを深く考えることこそ間違い」と反感を買いそうな気もする。いずれにせよ自分と異なる他者の言を嘲笑し、まず認めない悪しき習性を持つ私こそ、立派に鼻持ちならない現代人として、大いに自覚するところであるのだが。
 いずれにせよ、自己愛を表現する方法としてどのような方法を採ろうと、人にとやかく言われる筋合いはない。自己のみでなく、極端な話先に述べた犯罪行為に到らないにせよ他者に大きな影響を与えてしまう過程・方法を避けさえすれば「勝手」なのであり、ここに「常識」「モラル」等もっともらしい理屈を持って他者に強要することをファシズムと同義とであることに気づかず、或いは眉をひそめる事で事象に対して思考停止したままそれを真実として疑わない賢人には、できればこの先は読まない方が良いと思う。
 なんだかわからないけど続く。