『ローランサン展』於鎌倉大谷記念美術館

 訪問日は先日の記事と同日。

 まず、美術館の佇まいを。
 もうそろそろ慣れてしまった感もある、「お金持ちの旧邸を、維持管理のため施設として利用」された典型的な建物。ああ大金持ちだなぁ、位の感想。屋内、時間が早かったせいか他に客はいない。元々閑静な住宅地にある関係で、屋内さえ静かならば観賞を妨げる雑音は響かない。そのため、特に背景に「森」が描かれた『踊る少女達』、絵の少女達に誘われる、踊りと共に歌う少女達の声が聞こえそうになる、総じて戻ってくることの出来ない世界に引き込まれそうになる、そんな気持ちを踏みとどまらせたのもまた静寂。ところで「企画展」に合わせた展示品の他に所々「常設」的な展示物が屋内に数点か飾られている。その中の絵画。色彩が暗い。目的外の展示品に興味がないというのが大きな理由だが、ほとんど省みず、流してしまう。ので、どのような絵が飾ってあったのかほとんど思い出すことが出来ないが、何故か、その全ての絵が「暗い色彩」だったような気がする。或いはローランサンの紡ぐ鮮やかな色彩を際だたせるための演出か?そのような静寂と、暗い書き割り、彼の絵画を鑑賞するに偶然にも最も優れた環境に恵まれたのは大変な幸運。今思えば。
 ローランサンの色遣いは好きだ。更に好みを言わせてもらえば、「はっきりとした輪郭を持たない」「背景との境が曖昧」な少女達。彼女の絵、現実感の希薄さが却って存在を際だたせると私流の勝手な解釈をして観賞するのは、間違った観方であろうか?
 前に立って、動けなくなってしまった絵が一枚。『遊ぶ子供たち』。黄色い服を着て頭に白い花冠を被って、少女たちの中で唯一鑑賞者に視線を与える一番右側の少女、これはもう反則。どうやら前に立つ全ての人がその視線に足を止めざるを得ない仕掛け。少し離れて、しばらく観察すると、特に男性、その只ならぬ「目力」を最初に、敏感に感じ取る様子。何者も逃れられない、少女の瞳。
 森の入り口は逢魔の入り口。『踊る少女たち』の邪気のなさ、無垢さは、却って魔性の印象を深める。闇のより深きがゆえの無垢さ、並んで対となる魔性を写す依代たる鏡は、常に森の向こうに純真さ故の罪の意識を暗喩する。故に、この絵に向かって手を差し出すことは絶対に出来ない。コティングリー妖精事件で世間を騒がせた、純真さ故に真理を捏造した少女達が見たモノは、恐らくはこのような様子で舞い踊っていたのでは?何の根拠もなく思い浮かんだ妄想に遊ぶ。
 一度、日が昇ってから日が暮れるまで、この少女達を眺めていたい。