『特別展 清方の美人画』於鎌倉市鏑木清方記念美術館

 幸いにして?と言うべきか、通院の関係で神奈川に多少の縁が出来、また大病院特有の気まぐれな診察時間とも相まって、一日の内、実際に必要な時間以外の半端な時間が生まれてしまう。今回はその半端な時間をこのような形で利用させてもらうことにする。

 直接のきっかけは、何となく無垢な少女が観たいと思い、『ローランサン展』を観ようと思ったこと。女性繋がりのついでに割合近い場所にある上記の美術館を訪ねることに。
 清方。妙な縁から幼き頃よりその絵に親しむ。何とはなしに観た時、所謂「癖」の感じられない無垢さにまず惹かれ、改めて見直した時、自分の見立てがあまりに表面的に過ぎないことに呆然とする。幼き身に、その呆然とした何かが何なのか、表す言葉が身の内に収納されてはないために、却って無意識の中に刷り込まれてしまった清方の美人画は、自分の中の理想の女性像として、ついには現実の女性像との埋めようのないギャップとなり、未だに私を苦しめる。私にとって二次元コンプレックスの覚醒は、清方によって為された。恐らく。
 とは言っても、自分の嗜好も大分変化した。この度、その因縁?ある清方との久々の再会に伴い、成長?した自分を改めて感じる。とりあえず、今回出会えた絵で、最も私の心を捕らえた「女性」二幅、『道成寺(山づくし)』『襟おしろい』。前者、昔なら少し癇に障った女性の目つきが今、不思議と最も心を捕らえる。自らの舞に合わせて手に持つ鼓で拍子を取り、五体を酷使して一心に舞い踊る内、やがて演者に憑依する恍惚を、幼少時に癇に障ったあの目でもって、今度は画中核にはなっているものの、決してはっきりとした形としてではない存在感を訴える。舞が終わり、舞台の袖に下がった演者の、息絶え絶えに伏す様、周りの呼びかけに、ほんの少しだけ伏せた顔を上げ、その一瞬、演そのままに尚も残る舞の表情、恍惚の眼。演の後として演者がそのような有り体を見せることなどあるはずがないのだが、この絵の続きとして最も相応しいように思える。
 『襟おしろい』。当時でさえ結う人の希な髷を結い、視線は観者を捕らえず、逸らしたその眼、これが誘いを暗喩する眼差し。視線を向けられたのが夫でないことを想像すると、言わば「玄人の人妻」が誕生する。輪郭のぼやけた婦人像は、それだけで時に劣情を催させる。美人画に何を求めるか、少なくとも純粋無垢な聖女を崇拝するためにそれが存在するのなら、私の観方はこの上もなく下品に見える。