はからずも、みこの禅師の体験を得たる

 何か、とてつもなく大事な何かを、自らにとっては絶望的と言わざるを得ない状況に於いて、なんとしても守らなくてはいけなくなった時。
 私の場合、異常なまでにものに執着するものの、かといって身と共にそれを守る術まで考えが至らず、おろおろしている内に命と共に大切な何かまで奪われそうな気がする。とても「みこの禅師」のように躊躇なく飲み込んで、その大切な何かを我が身と、或いは永遠に分かち難き存在とする覚悟を選べそうもない。
 故に、その覚悟と引き換えに、その身に耐え難き苦痛を伴う難行に耐えうる力は持ち合わせていない。そもそも、その覚悟がないために、我が身をその苦行に陥らせようがない。

 ところが、先日より思わぬ事からその苦行を受ける機会に恵まれ、現在においても、同様の苦しみが筆者を悩ませ続ける。最も、みこの禅師の例のように自分には何か命に比してまで守る何かのために自らこの苦行を選んだわけではなく、この苦行の末に待つものは、残念ながら捨身飼虎の荒行ということではなく、自らの骨を密林の一角に晒す結末を用意されているわけでない。
 とは言うものの、治療という名目の元、いつ果てるともしれない時間、このような苦しみに耐えなければいけないこと、実際にそろそろ我慢の限界に達しているというのが正直なところ。そのため、多少なりとも苦痛を紛らわすために、苦痛の場所の一致を幸いに澁澤龍彦先生の『高丘親王航海記』最後の章を仮託して、一瞬、自己満足に浸ろうとまたもやバカげた妄想をした次第。








 腸閉塞の治療〜腸内の詰まった箇所の圧力を減ずることで開通すること期待します。そのため、飲食は禁として、それでも効果がない場合、鼻より「イレウス管」と呼ばれる管を喉〜胃〜腸を経由して患部近くまで挿入します。それによって腸内の内容物を排出し、腸内の圧力を減じます。患部まで、場合によっては2メートル近くまで管を挿入することもあります。管はある程度の太さ、堅さをもち、通過する器官をしばしば圧迫し、患者に異物感、場合によっては苦痛を与えます。特に喉への圧迫は痛み・嘔吐を伴うことがしばしばです。