『追悼のざわめき』

 「愛」があれば、「このような愛し方」も許されよう。何よりも、制作者のこの映画の登場人物に対する底知れぬ愛を感じられる。そして映画を観ている我々も、この映画に登場するクズ同然の無能力者達〜訂正、彼らを無能力者とは言えまい。「全てを自らの信じる愛の為だけに捧げる人々」〜にいつしか言い知れぬ愛おしさを感じるようになる。
 その愛を自覚するほど顕著に感じるようになる現象として、「スクリーンからニオイがする」ようになる。叩き落とされた鳥たちが眠るドブ板下の腐臭。新たな生を獲るために捧げられるべく、その「前儀式」と言うべき取り出したばかりの子宮をひっ掴む、血と都会の汚物の混じり合ったニオイ。体の中から沸き上がる、汗と後ろめたさが、人でもぶっ殺したくなるくらい人間の中枢に障ってくる大阪の蒸し暑さと混じり合うことでこれ以上常人を狂わせないように、片輪者の傷病軍人の太股を堰き止めるように覆う包帯の香り。風呂にも入らず日がな己の愛と欲望を消費することのみを指令とする脳髄の、その糧とするべく経口に放り込まれた後、遂に目的を達せず咀嚼もままならぬまま油まみれの毛の生い茂る頬と顎と首筋と・・・地に吸い込まれるまで流れ墜ちるミルクとあんパン。小人の住む家は、大人には計り知れない香りを発することだろう。作中、ほとんど臭いの発することの無かった男女は若い兄妹の一組、最後の方のクライマックス、作中全ての「愛」が一所に集まるシーン、自らも血にまみれ、既に骸となった最愛の人を胸に抱く彼からは、涸れ果てる直前の噴火口の臭いがしていた。
 スクリーンからの臭いとは対照的に、解析度が低いかのように映る、ガラスを通じて適度に透過されたかのようで、作中最も醜悪に感じる慈善箱を失った傷痍軍人の姿さえ美しく見える映像には、先程述べた「ニオイ」との対比と相俟って驚愕。もっともこのことに気付かせてくれたのは観賞に誘ってくれた友人の言からだったのだが。
 己の愛の形を頑なに信じ、行き着くところまで行き着いて、それでも愛することを止めず、ある時点で想像される悲劇へと、作中全ての人物が当然の如く行き着くこととなる。残されるのは当然片側のみ。その時の個々、それぞれ異なる反応を見せるモノの、そのいずれも悲劇と見えないところが面白い。なぜなら、彼らの悲劇を表す表情の中に、自ら望んで、或いは予めこの結果を予測して、というような表情が現れている(様に見える)。ならば、観者としてこのシーンにどのように対すればよいだろうか。「笑う」。もちろん、スクリーンの中の主役達に対してではない。世の中のいろんなことが見えてきて、不利な状況が予想されればその過程に関係なくその選択を採らない、例えて言えば「チェ・ゲバラの人生にあこがれを感じなく」なった、大変頭の良くなった私自身に対して、である。
 それにしても、嵐の夜にこの映画と接するなんて、ちょっと出来過ぎじゃないのか?雨と風と湿気とで、妙な具合に脳髄が揺すられたのが、感性に丁度良いソースにになった。