『大統領暗殺』

 まじめなまじめなパロディ映画。構成は、数人の証言者のインタビューを重ねていくことで「事実」を少しずつ重ねていき、遂には「真実」に行き着くという、アメリカでよくありがちなドキュメンタリー形式。それ故に、リアルと言えばリアル。面倒くさいので監督については何も調べていないのでよくわかりませんが、ちゃんとドキュメンタリーの作り方を心得た人の様な感じ。つまり、「ドキュメンタリーを作ることに長けた監督が、その知識を駆使して嘘のドキュメンタリーを作る」という、まあ、タチが悪いといえばタチが悪い作品。『鼻行類』みたいなモンですな。
 大変にセンセーショナルとなり得る「フィクション的内容」を暗示する題名がまず先行してしまい、まるで「ものすごい映画である」と勘違いしがちであるが、この映画で言いたいことは至極単純で今や大変常識的な事実である。「大多数のアメリカ国民にとって真に知りたいこと、それは複雑で都合の悪い真実ではなく、単純で都合のよい虚構である」ということ。こうなれば、思考停止とはもはや悪徳である。そのような強大な悪徳に対して、ほとんど見逃されてしまう小さな小さな事実を積み重ねて虚構に対し説得力ある事実として形作っていく過程、まさしく「ドキュメンタリー」の本領であり、この場面では不覚にも「フィクション」であることを忘れてしまう。物事を、簡単に単純化することなくきちんと見極めようと考える、そのような傾向が強い人ほど、この場面に「事実を見る」のではないだろうか。何という逆説。この場面に於いては、物事を非常にシンプルに単純化してみなければならないというわけだ。「このような映画を平日の昼間に好んで観に来るひねくれ者の」私たちが。「事実は小説よりも奇也」、この言葉がこれほど胡散臭く感じる瞬間があろうか。事実というモノは、案外、至極単純でまとまったモノであるのかもしれない。ちょっと待て。もう一度考えてみよう。「この映画で描かれた事実に、実際の事実は何処にもない」。それに、「たかが映画」だ。