大竹茂夫 (『物語の真っ只中』展より)

 美術館へは、なるべく平日に行くことにしている。日曜日、入館するためのみに列を為し、やれやれと入館できたと思えば、お目当ての前にはこれまた黒山の人集り、吐息、人いきれ、そのまま絵画に移るのではないと思われるような化粧と香水の臭い。人の頭越し、或いは人山を掻き分けて眺める「芸術」。何故これほどまでの苦労をしてまでの非日常? これならば満員電車の吊広告に「芸術品」のレプリカをつり下げて毎日毎日眺めながら通勤を行き帰りした方がずっとマシ。どうせレプリカも本物も区別つかない人でほとんどなんだし、私含めて。ああ、なるほど、デュシャンだな。まあ、これはこれで日本人らしくて良いのかもしれない。
 多くの鑑賞者が訪れる昼間の美術館、閉館後、したり顔して絵画の周りを回る鑑賞者の足音、館員のそれさえも絶えた静寂の支配する夜の美術館、二つの相反する時間の境目は、二つの異なる世界を分かつ境界となっているに違いない。人間の支配から解き放たれ、自らをも支配する立場に立った芸術品達、その解放感のあまり、彼らが昼間、人間に決して見せることのない姿・形をもって、見たこともない姿勢でもって、無限に増幅された暗闇の中を我が物顔で闊歩していたとしても、決して不思議ではあるまい。もちろんその光景そのものは不思議極まりないのだが。
 この展覧会に招待されて壁の一部に鎮座する「人間とも動物とも植物とも違う、舌とも触手とも見える、細長い、外気に剥き出しの器官を持つ、得体の知れない、それでいて人懐こそうにも見える生き物たちが、博物館の鑑賞者の背後で、鑑賞者から見えないように己の存在を気付かせようとしているのか、或いは床に寝転がり、或いは陳列物に跨り、又は陳列棚の陰から、窺っている」絵(画題失念)を観て思い浮かんだ妄想。
 恐らく、誰憚ることなく、上記の様な光景が繰り広げられ、その名残として若干妖気のカスが、歩くたびに埃のように舞い上がる朝一番の美術館。まだ、鑑賞者が私1人のその場所では、浄化されない妖気の埃を頼りに、夜の興奮を収めきれない絵画達が、気に入った一点の絵画を見つめるが故に探り当てることのできない死角となった私の背後で、私が振り向くまでのわずかな間、想像外の姿でもって、踊り狂っているに違いない。これを収めるためには、もっと陽が高くなることで妖気を浄化し、もっと人がたくさん集まることで館内に死角を無くすことでしか、対処の仕様があるまい。だから、朝一番の鑑賞者の恩恵に与ることができた時、私はなるべく後ろを振り向かないようにして、美術品を眺めて回る。