『いのちの食べかた』

 最初に一言。前世、牛でも豚でも鶏でも、とにかく家畜だったという方は観ない方が良いです。観賞の最中に前世のフラッシュバックが起きて卒倒するかもしれませんから。
 作中、解説等ナレーションは全く入らない。エンドクレジットすら延々と行われる作業の音をバックに流しながら映画は終わる。そのため、映画の冒頭、何が始まっているか最初はよくわからないまま、気付いたらモノのようにヒヨコを選り分けるシーン。機械的にヒヨコを選り分けるそのシーン、何故だか、形容しがたい可笑しさに私が堪えなればいけなかった理由は、実際に無表情のまま選り分けているおばさんと同じように、既にヒヨコを生き物とは見ていなかったことの裏返しであろう。そのような心理状態のまま、映画は続く。とにかく延々と、動物・植物区別無く、更には鉱物に至るまで、我々が一度は食卓の上で見たであろうとにかくありとあらゆる「食物のタネ」が、まるでトヨタの工場のラインで自動車が造られるが如く生み出されていく。ただ、その決定的な違いは、自動車が細かい部品を少しずつ付け足していって一個の完成品ができるのに対して、「食物のタネ」は、細かい部品を少しずつ削ぎ落としていくことで複数の完成品ができることである。その有様、観る人観る人どのように映り、どのような考えを持つに至るか。
 別に狙ったわけではないが、この映画を観た日、私は朝から何も食べずにこの映画に望む。スクリーンの向こう側で、我々の舌に乗せられるために次々と生産=解体されていく食物のタネと、いつもの気まぐれと慣れきったつもりでいる断食中の空腹とはいえ、やはり自然の摂理に抗いきれず、屠殺される牛の断末魔よろしく、奇妙な声でもって鳴り続ける私の胃、そこに放り込まれた食物は、酵素で満たされた消化液によってミクロの単位に至るまで干渉・分解されて私の栄養となり、或いは未消化のクズとなる。なるほど、個人個人の腹の中で行われている非常にパーソナリティな作業を見える形にしてみると、この映画のようになるのだな。
 その日以降、少なくともその日は特に、私のために命を捧げてくれた無数の命達に大いに感謝して食事にありつく。当たり前のことを再び頭に、心に、思い浮かばせてくれるというだけでも、この映画を観る価値は十分過ぎるほどあると思う。