『パンズ・ラビリンス』

 少女には迷宮。そもそものモチーフは「少女の発展途上期における成長への試練としての冒険(?)」。近い将来、成長した元少女にとって、今や必要でも重要でもないかつての冒険の記憶は必然的に忘却される運命にあり、それを必要とするのは案外少女以外の人々であることが多い。ああ、偉大なり、不思議の国のアリス。この映画はその様な「少女の冒険」のモチーフを辿っているようでありながら、最終的にそれと異なることがわかる。この映画で語られる少女の冒険は、曖昧無辜な未来を待つ大人への成長の記録ではなく、ある時点で人間としての成長を断絶することになる少女の記録である。故に、この記録は他の誰のモノでもない、まごうかた無く主人公の少女だけが所有資格のある記録である。そうでなければ救われない。
 故に、人間としての少女が暮らす「現実」も、人間外のモノとして少女が遊ぶ「幻想」も、最初から、最後に至るまでどうしようもない閉塞感が付いて回る。「幻想」の世界においても、だ。これは幻想を形作る世界観に、救いようのない現実の世界観の影か落ちている表れの様に見え、まさしく「少女だけ」の幻想の世界であることを暗示するかのようであり、このことが観者に著しい疑心を与える。最後の最後、それまで現実と幻想の境目に立ち、少女を「幻想」へ誘う役割を果たしてきた「パン」が少女に問うた究極の選択においてその疑心はまさしく確信になる。即ちこうである。「少女はアンネ・フランクのように死んだのだ」。多少なりとも善意の心を持って映画を観る者に、この確信は強い憤りを生じさせる。その時点で、まさしく私もこの作品の監督の術中にはまっていたのだ。
 少女がどこへ行ったのか、もはや誰にもわからない。