千社札的変節

 okitsuneさんからお星様もらた。嬉し。と言うわけで、千社札のお話を。
 幼い頃、父親がどっかの土産物屋で買ってきた、20枚で500円くらいのいかにも土産土産したシール式の千社札、当時は千社札の意味を解さず更に神社・仏閣が大好きなオカシなお子さまだった私は、その様な神聖な場所にべたべた貼られた千社札に良い印象は持たなかった。「千社札」という名称を知っていればまた違った印象を持ったかもしれないものの、当時から現在に至るまで一貫して「悪意なく罰当たり」な父親の、特に説明なく行う行為とあって一番最初に「負の印象」として刷り込まれたことは大きい。その後、これまた当然の如く旅の携帯物としての存在を持ち主に忘れ去られたその「名前シール」は、まさしく名前シールとしての機能以上に作用することはなくなり、更にその最後に残った機能さえも忘れ去られ、存在さえも忘れ去られた。実家に帰ると、当時からあるなんかのケースにこのシールが著しく調和を欠くかたちで貼付されている姿が未だに発見される。この程度の気まぐれは別に我が家では特別なことではない。
 そのため、社寺の門に奉納された千社札について、人ん家の壁に勝手に描かれたなんたらアートよろしく単に「マナーの悪い行為」以外の感情を持つことはなかった。この認識を翻すのは件の『ステキな東京魔窟―プロジェクト松』を読むまで待たなくはいけない。
 いくらなんでも『散歩の達人』でマナー違反を奨める事はあるまい。というわけで「千社札」についてちょこっと調べる。すると・・・。まず己の不明を恥じる。同時に普段は自分のエスの奥深くに静かに、かつ鬱屈として横たえている自己顕示欲がむくむくと沸き上がって来るの感じる。同時に、「今まで回った数多くの社寺」にこの千社札を奉納できなかった事に強い後悔。これからまた同じ場所を巡ることが出来るか? 
 某店で頼んだ千社札がどんな仕上がりになるか、到着しなければ判らない。派手すぎず、地味すぎず、せっかく奉納させていただくのだから満足いくように。満足いくようならこれから社寺を巡る楽しみがまた増える。奉納しにまずはどこへ行こう。
 ただ、これだけ人が増えて、有名な社寺に日常の延長でもって簡単に詣でる事が出来る様になった世の中に、千社札と業欲の願いで溢れる山門にいかほどの、との想い。これはもちろん、普段から私のエゴの上に居座るなんか黒いモン。
 マナーには十分配慮して。