『知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展』於東京都写真美術館

 展覧会は作品集『この憶い出を君に伝えん』『夜が心を洗い流す』『雪の劇場』『スプーン・リヴァー』『自然について知ってること』『樹木の断面』『私には自分の顔を愛撫する手がない』『男、女、愛』『ジプシー』『スカンノ』『プーリア』『善き大地』『ルルド』『死が訪れて君の眼に取って代わるだろう』それと『初期の作品群』からそれぞれ選ばれた作品が展示されている。
 はっきり言って、今回の展覧会まで全く知らなかった「芸術家」でした。直接のきっかけは友人に誘われたことからであるが、以前より写美のWEBサイトで予告されていたことは何となく記憶にある。何故記憶にあるかというと、この展覧会を紹介する「煽り」の一枚が、その意味を知らなくてもとてつもないインパクトを与えるに充分だったからである。モノクロの画面に、黒衣を着した人々が手を繋ぎ輪になって踊っているように見える写真。サイトの中のそれは小さく、その人々が実際にはどういう人々でどのようなシチュエーションなのかは実際のところ解らず、「恐らくは踊っているのだろう」ということ、このような景色への先入観から「踊っているのは女性」と漠然と思ったこと。これだけと言ってしまえばこれだけ、だが何故かとてつもなく惹かれる。
 件の写真は『私には愛撫する手がない』という作品群の中の一枚なのだが、この一連の写真、実際はもっと深く被写体となった人々を削り取っている姿であり、常人には見当も付かない作者の感性の象徴であった。被写体は「神学校にて学ぶ神学生達」。全て男性である。彼らを被写体とする作品群に付されたこの題名の意味は「彼らは将来神職者となってその手は多くの人々を支える、だが自らの子を為すことの出来ない彼らは、彼ら自身を支える手を持つことがない」との意味で古詩の一節からこの言葉を選んだとのこと。神に仕えることで万人を支えるという方法に評価を与えながらも一方でその方法に全てを捧げる彼ら達への疑義に触れる。一連の写真の被写体はほとんどが若者。「常に黒衣を着て」「俗人とは異なる価値観を身につける訓練をしている」ことを除けばごく普通の若者達。実際に、撮影する上で作者が仕組んだイタズラに際して歳相応の反応を見せ、その姿は「生き生き」と写されている。最初に触れた煽りの一枚はそんな中の一枚である。だが、作者の心中の思いに。
 作者の写真家としてのキャリアは「まず印刷業者として」の土台があるとのこと。実際に写真を撮り始めるより先に得た技術をもって、それを撮影に応用。実はこの展覧会、このタネ明かしをするために、『初期の作品』を一番最後に、『遺作(この思い出を君に伝えん)』を一番最初に観賞するような順序になっている。彼の写真が対象物に対し思考と実際の上において徹底的に手を入れて作り込んでいるのは一目瞭然であるが、当然のことながら多くはこれらの「手を入れていること」に対してのこれまた徹底的の配慮によって「ありふれている」ことに錯覚し「ごく自然に見えてしまう」作品が多くある。『自然について知っていること』とはそう題することでここで被写体となっている「自然」に対してと「自分の手法」に対しての説明に聞こえる。
 私は一連の作品群の中で、「人物」を写した作品群にこの作者の凄さを強く感じる。先程述べた「将来を神に捧げた人々」の先に展示された神より死を賜った人々(『死が訪れて君の眼に取って代わるだろう』)、或いは賜った死を何とか返上することに一縷の望みを託すため集まった人々(『ルルド』)、これらの姿、当然予想される「彼らの行き先=死」を見つめながらカメラに収められた個々のそれに至る過程を。これに『私には愛撫する手がない』を並べたとき、まるで、人生と死を嘲笑うかのように作者の眼が悪魔の視点に限りなく近くなるような邪な錯覚を感ずる。他の作品群を見れば作者の視点に「生へ視点」が決しておざなりになっていないこと明確なのであるが、それほどインパクトの強い「人物」の作品群、その、彼らの昇天の遙か先に自らに用意したかのように見える「遺作」、彼の追う生と死がここに静かなまま完璧に終結、ここに至って徹底的に造られた余人の入る隙間のない彼の、彼だけの世界に、その続きを求め得ないということのみが悲嘆の感情として感じてしまう。