「首」蘊蓄

 何が不思議かって、人間と呼ばれる者全てにこんなモンが天辺に載っかっている。どう使っているのかはまあこれは置いておいて。
 「ヒト」の進化の過程で「立ち上がる」、即ち「直立歩行する」ということは「首」のそのまた天辺載っかっている「脳」を進化させるためにどうしても必要なことだったとのこと。脳の発達と脳の容量、引いては重さの増加はほぼ比例し、四肢で体を支えることで頸椎のみに負担させていた脳の重みを、「直立」という姿勢でもって体全体でもって支えることを始め、以降重力のハンデを克服した脳、即ち「ヒト」は飛躍的に進化する。即ち我々が等しく戴いているこんなモンは動物としての生き方を変えねばならないほど重い。
 ドゥカティで時速160キロほど飛ばす。後ろからもっとぶっ飛ばす車がうるせぇから車線を変えようとする。格好重視でミラーの視界のやたら悪い真っ赤なイタリアンバイク、更に高速時の極端な前屈姿勢。ミラーだけでは信用できず、かといって勘に頼るは当然危険。その姿勢のまま首を反らしほんの一瞬だけ後方を確認、しようにもほんの一瞬ができない。首だけが、反らした瞬間、今までバイクと体が代表して受けていた風圧をまともに受けて後方に押し込まれる。その感覚はまさしく首だけが風に持って行かれてしまう感覚。つまりこれが物理の問題に於ける「ただし、空気の抵抗は無いものとする」としなければいけない但し書きの体感なんだな。それだけ強い抵抗を得るほどつまり首は重いんだな。この下手くそなバイク乗りに誰か巧い後方確認の仕方を教えてくれぃ。
 杉浦日向子の『合葬』に戦に敗れた彰義隊の少年兵が戦死した友人の羽織に包んだ首を一人で抱えきれず、二人で持って逃れる描写が見える。舞台となった上野戦争の少し前に行われた鳥羽伏見の戦いで戦死した新撰組井上源三郎は退却の最中同行の甥に首を運ばれたものの、そのあまりの重さに運びきれず途中の寺にその供養を願い預けていったがこの寺の名前は伝わらない。首のその重みの、少年には抱えきれないその重さよく伝わる。「首」を働きの証とした戦国武将は自ら取った首を三つも四つも腰にぶら下げて戦ったというからその強力や恐れ入る。最も笹の才蔵こと可児才蔵という名うての戦人は、討ち取った武将の首は持っていかず代わりに笹の葉を含ませ自らが討ち取った証としたとのこと。いかにも戦慣れした要領の善し悪しを現すエピソードだが、要は重い首をぶら下げていては働きの邪魔になることの表れであろう。先に記した鳥羽伏見の戦いで徳川方で恐らく最強の戦闘力を擁した会津藩の藩兵達は圧倒的に劣る装備の前に不利な戦いを強いられる薩長軍に対し、特に白兵戦で凄まじい働きを示したというが、敵兵を討ち取る毎にいちいち首を取って腰にぶら下げるものだから戦いの邪魔になること明らかでで見かねた味方他兵が忠告するもなかなか理解されなかったとのこと。嘗ての戦いの作法が200年の太平を経て形骸化し、或いは200年ぶりに得た首の重さかもしれない。嘗て戦での報償を表すは、相手の一つしか持ち得ぬ首こそが最もの証となり得たが上の重さであろうが、こうなっては無用の負担にしかならない。が、負担となろうともその重みのただ質量のみに限ることではないこと、これこそが首の重みだろう。なぜだかクィーンの『狂気への序曲』のプロモに登場したゴリラの首はやたら軽そうに落ちた。ぬいぐるみだけど。
 「さてさてお立ち会い。ここにあるは世にも奇妙なろくろ首、元は深山奥深く・・・」日の本のお化け、ろくろ首はその昔中国のどこかに存した「飛頭蛮」と言う一族の親戚とのこと。「飛頭蛮」とは文字通り体から離れて頭を飛ばすことのできる一族で、昼間は普通の人と同じように生活し、夜になるとその首を体から離して自由に飛ぶことができ、また首が飛んでいる間その胴体を動かすと忽ちにして死んでしまうという。有名な所として『三国志』に伝の立てられた呉の将軍、朱桓の屋敷で雇った女の召使いがこの一族だったらしく、夜な夜な首を飛ばして怪異を表したとの話がある。それにしても昔の中国の「真面目な」歴史書・伝記にはこういうどーでも良い怪異譚が結構出てきてたまに因果応報と結びつけられるこじつけ振りがなかなか面白い。我が国でも初期のろくろ首はこの飛頭蛮と同じように首が胴体から離れて飛ぶタイプ「抜け首」がポピュラーで、やはり「飛頭蛮」と同じ様な生態を持つが、「抜けてる」間、少々悪さをしでかすのが我が国の「抜け首」の特徴らしい。多くは抜けている間に他人や家畜の血を吸う等、どうやら抜けている間は自らのエネルギー摂取活動に当てているらしい。戦国時代だか、ある戦の際、明日はいよいよ決戦という前夜、どこからともなくこの抜け首が現れ軍馬の悉くに取り付き股から精気を吸い取ってしまったので明くる日馬が全く役に立たなくなってしまったという話が伝わる。重い首をわざわざ飛ばすのは物凄くエネルギーを消費する行動だろう。そこまでして何をするかというと、そのエネルギー消費に見合った栄養摂取を行うというわけで、これは生物として理に叶っているように見える。生体エネルギーを全て首を飛ばすために使用していれば、最低限のエネルギーしか持ち得ない胴体が少しの振動を与えることで強いショック状態に陥って忽ちの内に死んでしまうという習性も理に叶っているように見える。その弱点を克服するため、「首の伸びる」ろくろ首はエネルギーを分散させないという進化による発展か。
 「この銃の前ではお前の頭など血の詰まった風船だ(注、「風船」に「バルーン」のルビ)」確かこんなんだったか、『バオー来訪者』のドルド中佐のお言葉。なるほど、重い「首」に満遍なく水風船のように血が詰まっている。首の中の脳の持つ意識がエネルギーなのかどうかイメージとしてよくわからないが、意識を保つエネルギーとして血液が満載されているイメージはよくわかる。さてさてここからがお立ち会い。果たして首だけになっても意識は保てる? シャルロット・コルデーがギロチンで処刑された後、頬を叩いて侮辱した処刑人サンソンに対して眼を開けて睨み返したとのことだが、礼儀正しく信心深い紳士として知られたシャルル=アンリ・サンソンがその様な不作法を働くとは思えないのでこれは「暗殺の天使」へ添えられた伝説にすぎないと思う。ただ、汚らわしき手指に触れるを抗する鮮血の帯びたる首の有様や、サロメの持つ盆に乗せられた洗礼者ヨハネの首宜しく魅惑に満ちた構図であるのだが。全ての罪に対しての刑罰が死刑しかない時代のと言うかそもそも西洋人に首に対する尊厳は如何や? 切り離された首が意識を持ち得る理由として、切り離された瞬間、生体の中のできるだけ重要な部分、即ち脳を保護するためその一カ所に血液を集中させるからしばらく意識が残る、との仮説があるだが当然実証のしようがなく、そもそも実証させる意味がない。もしもこの仮説が正しければ、最良の手段を取ろうとした生体反応は人生で最も残酷な瞬間を最後の意識の中に用意することとなる。どうも、首を切られた後は、余計な血液が脳に残らないよう、重力の力でもって、血液と共にその真紅の液体に溶け込んだ最後の意識を振るい落とすため、素早く高々と首を掲げるのが最も人道的な方法のようだ。
 以上、久しぶりに『フルメタル・ジャケット』を流し観していたらハートマン軍曹の「首を叩き落として頭蓋骨ファックしてやる」とかいうセリフから「そんなことができるのかな?」という素朴な疑問から連想した全然関係ないお話でした。