『バックドロップ クルディスタン』

 クルディスタンとはトルコ・イラン・イラク・シリア・アルメニアと中東の国々を跨いで広がるクルド人居住地域のことだそうな。「自らの国を持たない最大の民族」であるクルド人達は、それぞれ属する国々で少数派としてしばしば弾圧の対象とされてきた。トルコでの迫害を逃れるため日本に来たクルド人一家のカザンキラン家。彼らを難民と認めない日本政府。政府が認めないのなら国連にと、青山の国連大学前で難民認定を求めるデモを行う一家と支援者。とにかく強く感情に訴える一家の真摯な思い(或いはパフォーマンス)に対して当初まともな対応を取ろうとしなかった国連側は遂に一家を難民と認定して第三国出国の調整を取ることで合意。やれやれと思った矢先、仮放免申請に入管を訪れた一家の父親・長男は日本国政府に拘束、トルコに強制送還されてしまう。残った一家は家族離れ離れのまま、その後無事第三国に出国する。一家に支援者として、友人として個人的に深く関わる監督は、望まない帰国を強いられた父親・長男を追ってトルコに向かう。
 映画前半における「問題提起」は現在大問題(にしなければいけない)の移民問題に関係するようで興味深い。厳密には「移民」と「難民」とは全く異なる概念だが、異邦者に対して冷たい日本の風土にとってあまり大差なく「忌むべき物」としての認識が今のところ一般的ではないかと思う。売国奴共が特亜に媚びるために進める移民受け入れ計画云々、ということはここでは述べないが、『「難民」はダメだけど「移民」はおK』という政府の、あからさまな「カネ>人権」構図を元にしたナメた態度がよく解り、大変参考に。更には「国連重視の国際秩序」を謳っていながら、その国連が「認めた」難民を「国内法上問題ないから」と強制送還するご都合主義。我々が住んでいるのはこんな国だ。もちろんこの映画の趣旨はそこに重点は置かれていない。
 映画の後半はトルコ・ニュージーランド(国連が受け入れを調整した第三国)と日本を離れた一家を訪ねて旅する。監督自身の彼らに関わり始めたきっかけというのは、恐らく「迫害事実に対する義憤」。実は極度に自己の感情に依拠する大変曖昧なこの動機、一方でこの旅の過程で明らかになる「トルコ国」と「迫害事実」、そして「クルディスタン」。画面の中にしばしば登場するのは、「知れば知るほど」強く起こる自身の疑問を自身に代わっての代弁。旅の最後、無事トルコよりニュージーランドに渡り無事全員再会した後の一家と触れ合いの後「ここにクルディスタンがあった」という監督の言葉、彼がどのように種々の疑問に答えを出したのかはよく解らない。私は一家を通して見たのは「最小単位のナショナリズム」たっだ。一家にとって「祖国」を捨ててまで戦う理由・・・。守る物の持たない私には、今のところ理屈以上の理解を出来る術を持たない。