『忘八武士道 さ無頼』

 時代劇である。が、ただの時代劇でない。所謂東映ポルノ時代劇である。わざわざ時代劇にする必然性というのは日本人の心だから?
 で、時代劇にはお約束の「時は天保〜年、オランダ商人の〜は更なる商取引の拡大を願い出るために妻を伴って江戸へ向かう途中、品川宿に差し掛かった(※「〜」の部分失念)」との解説っぽいナレーションで始まるわけだが、ここで紹介されるいかにも作中で重要人物そうなニオイを発するオランダ人が、何もしないうちにお供共々いきなり斬られた挙げ句妻が奪われるという、実は重要でも何でもなかったと言う衝撃の事実から物語が始まる。以後、こんなナレーションは最後まで登場しない。何の意味があるんだよ、これ。
 で、のっけからいきなりぬるい殺陣でばっさばっさ人斬りまくって毛唐の女(ママ)奪っていったのが主人公の九死一生(伊吹吾郎)で、「毛唐の女が抱きたい(ママ)」と言うさる金持ちの依頼を受けての凶行。いざ女を届けると怖じ気づいた依頼主をぶった斬って「もったいないから」と毛唐の女(ママ)も犯して殺した後、お尋ね者となっても御用の手の者大勢ぶっ殺しまくった挙げ句「飽きた」からとわざと捕まる。お白州でも不遜の態度を変えず拷問の末打ち首獄門となるはずが、先の立ち回りを見ていた深川の女衒の大将である才兵衛(天津敏)が役人に手を回して自分のところに引き取ることになる。ここにおいて九死一生忘八(女衒)の手下と相成ったワケで、以後九死一生は何をやっていたかというと、用心棒やったり借金のカタに女さらいに行った先で女の家族をぶった斬ったり、頭がおかしくなって使い物にならなくなった女を妾にしたり、女衒のうち諸国から女かき集める役目の文句松(池玲子)に手を出したりと、こう書くとホントやりたい放題だなぁ。実際作中の伊吹吾郎の演技は、人斬るか女抱いてるか酒飲んでるか拗ねてるか、後はその男臭い顔アップにして色々となにやら無情を感じて・・・、ばっか。いやホント。だがそれがいい
 その後、江戸近郊の岡場所への女郎の供給を独占しようとする吉原の総名主を排除、懇意の廊主を新たな総名主にする事を画策する才兵衛の下、吉原側が雇う無明炎蔵(沼田曜一)率いる九郎助組との死闘、謀は成功したものの事成った後一生は邪魔者として才兵衛にも命を狙われることとなる。対していがみ合いながらも一生と心を通わせるようになった文句松の助けを得て、また新たに吉原の総名主に任じられた三浦屋が公儀をそそのかして才兵衛を裏切り取りつぶそうとしたりと、登場人物みんな敵状態の中血で血を洗う抗争を繰り広げた後、浮き世への執着から最も遠いところにいた一生のみが生き延びる、と言うお話。
 私的には、沼田曜一演じるライバルの無明炎蔵がツボ。女郎の調達を邪魔する際に舟で通行中に油まみれのイカダを寄せて女諸共焼き殺すシーンがあるんだけど、この時のいかにも「策が見事に成功、してやったり」って顔した意地悪そうな得意顔がなんとも。けどこのシーンでさえも「火を付けるために舟に投げる松明が人数に比して異常に多い」とかなんかもうどのシーンにも罠みたいにツッコミどころがあって、最早いちいち挙げてらんねぇんだよ。せっかく渋く悪役極めてるんだから一生と炎蔵の直接対決のシーンはもっと保たせてくれればいいのに。沼田曜一限らず出てくる役者さん達がなにげに一流どころ(他に川谷拓三も出ててこれがまたいい役なんだ)、なので個々のシーンがもう魅せてくれるわけなんですよ。例えそれがどんなにトンデモなシチュエーションの元に行われていても。けど時代考証とか筋の整合性とか物語を物語として観るための屋台骨が破綻したまんま物語が進むもんだから、見せ場名演が全てムダに見えてしまう、ある意味恐るべき映画だと思った。私はポルノ映画にあまり造詣が深いわけでないのでよくわからないのですけど、そういうものなんでしょうか?
 ところがですね、この明らかに破綻している物語が何故か私にとってはあまり違和感なく入って来るンです。何故か? エンドロールを見てわかる。「原作 小池一雄」。小池せんせぇ〜。あなたでしたか〜。そ〜か、あのノリだ。と言うことはこれはかなり原作に忠実なニオイがする。私は他の小池一夫原作の映画って知らないからだけど、それってすごく(ヤバく)ないですか?