『山谷―やられたらやりかえせ』

 「山谷」は「やま」と読む。かつて荒川区南千住・台東区日本堤・清川・今戸に跨り存在した都内最大あの寄せ場「山谷」地区、生活の中心としてそこに住まう労務者達、彼らに仕事を与える立場でありながら一方で搾取の対象とする業者・暴力団、この場所に深く関わる両者よりこの場所はこう呼ばれる。
 映画の冒頭、刺されて路上に倒れるこの映画の監督佐藤満夫氏の姿が映し出され、その後佐藤氏は救急車で病院に運ばれるがそのまま亡くなってしまう。1984年12月のことである。有志らによる佐藤氏の人民葬後、一年に渡って山谷における労務者達が組み込まれる搾取の構造、それに対して彼らはどう「やりかえ」すのかが彼ら自身の日常の生活(仕事・手配・ドヤ・アオカン*1・飢え・労災・のたれ死に等々)を映しながら当時の全国の寄せ場の様子、「労務者」階級が生まれるに至る歴史・構造を取材・説明しながら描かれる。
 一言で言えば左翼のプロパガンダ映画である*2。ただし企画者の佐藤氏、その志を継いで映画を完成させた山岡強一氏両監督とも敵対する暴力団に殺されているという事実が、まるで渡辺文樹作品のような煽りを連想させ皮肉なことにこの映画の知名度を高め集客力に一役買っているように見えるが、原因の根本の責任を日本政府に帰している辺り歴とした真面目な左翼映画だと思う*3。驚いたのはたったの20年前に左翼が元気。佐藤氏も山岡氏も全共闘世代で経歴から恐らく周囲もその中で左翼的戦い方を学んでいるらしく、労務者達を率いて悪質な日雇い業者に対して団交を行う実際の様子は「あ、新左翼って実際はこんな風に話し合いをするんだな」って感じがして面白い。まず暴力によって搾取を助長させる暴力団を排除、残ったカタギの業者に対し業者側労務者側双方ともに暴力を排して交渉する様子に、若さのままに思慮をを伴わず内ゲバの中に崩壊した全共闘運動からの進歩が見えて、あさま山荘事件と共に新左翼の運動が完全に終息していたと思い込んでいた私にはかなり意外に思える。この様子を見た後「あさま山荘モノ(学生側の視点に立ってる作品ね)」を見ればまたより深く作品を堪能できるかも知れない。
 元気があるといえば、山谷自身も元気。バイトや交通の関係上(要は通り道ね)私が直接山谷に接するようになるのはバブル期以降のことで既に山谷の職安も撤退していたように思う。なぜならバブル期なんて朝5時に高田馬場駅でたちんぼしてれば中学生にでも仕事をくれたので仕事に困るようなことはあまりせず、昼間でも道路上でおっさんがたむろしてたり寝てたりバクチ打ったりしてる山谷には寄せ場と言うイメージは持たず寝る場所の確保だけのために存在するスラムのような感じで、全く活気がなかった印象がある。つまり、作中の、良い意味悪い意味含めて、仕事に、生活に、闘争に、生きることに活気がみなぎっていた「山谷」は知らない。バブル期に労働行政や法整備がどのように為されたのか知らないが*4、画面上あれだけ元気な山谷を今の姿に貶める事となったバブル〜大不況というこの20年という月日に改めて空恐ろしさを感じる。こんな近くに「釜」みたいにおもろい場所があったのに。
 この映画に描かれた中心人物の「労務者」、この映画を作り彼らを生活・行動の面で支援した「左翼」、20年経ってそのいずれも山谷から消えてしまった現在、これは当時の山谷の日常を映し出しているいわば「絶滅種」を記録した大変貴重な記録映画となっている。現在のフリーター等非正規雇用による貧困問題と似ている様相はあるモノの、やはりこの山谷の労務者とそれを支える運動は寄せ場としての山谷の衰退ともに断絶した既に過去のモノと見るべきで、当時の問題と現在の問題を単純に結びつけて議論することはそれこそ国家のプロパガンダを鵜呑みにする愚民の思考に等しい。ただ、経済的弱者が強者に対して持つアドバンテージとはなんなのか、それを武器にどのように戦えばよいのか、左翼の衰退と共に失われてしまったその手法が、実際に繰り広げられる姿にすごく新鮮さを感じさせてくれる。もしかしたら「既製左翼との決別」を訴え時代を動かそうとしたあの運動が、あの事件による挫折がなければ無ければもっと大規模にこのような形で発展していたのかもしれない。その意味で、この映画は貴重で今でも何ら色褪せず観賞に堪えうる映画であり、或いは未来への行動の指針となるかも知れない。自分の行動とその記録に命を懸けて取り組んだ佐藤・山岡両監督の強い意志は報われて余りあるモノだと思うし、その行動に多大な敬意を。

*1:野宿のこと。アレのことではない

*2:作中何度もお約束のように貧困・差別の責を政府の政策に帰している

*3:いや、渡辺文樹作品もそうだといえばそうだからこの書き方は誤解を招くな

*4:恐らく排除政策も行われたのだろう