『アキレスと亀』

 映画監督という仕事は大変クリエイティブな事でしょう。一方で諸人に理解されないクリエーターほど悲惨なモノはないでしょう。この映画で描かれるのはそんなあるクリエーター(「アーティスト」)倉持真知寿(吉岡澪皇・柳憂怜・ビートたけし)とその「才能」を盲目的に信じて支えるその妻倉持幸子(麻生久美子樋口可南子)の人生を描く。
 自分の才能(或いは「唯一出来ること」)を信じてのろのろと先を行く真知寿に追いつきそうで追いつけず、そして遂に・・・という様を「ゼノンのパラドックス」の例えを用いて説明、タイトル通りそれが主題なんでしょうけど、一方で北野監督が前々作から執拗に描く「あり得ないけど、もしも、こんな、『自分』」が真知寿に投影され、真知寿の人生を幼少期から描くことで徹底的彼の才能の無さ*1更にはクリエーターという職業とそれを評価する事への欺瞞を徹底的に描き*2これらがなんか脅迫的にも見えて、「それでも」支える幸子の存在がなければ本当に悲惨。なので、特に後半、中年期以降の幸子を演じた樋口可南子の存在にすごくほっとしてしまう。
 例えば、劇場に映画を観に来る人々がみんな「クリエーター」のような職業を持つ人々だったらもっと共感できてもっと樋口可南子の存在に心打たれ或いは涙するかもしれない。ただ、実際に劇場でこの映画を観に来る人々のほとんどは「カタギ」のお仕事している一般的なお人なので、その想像外の世界で繰り広げられる一見喜劇と映る倉持夫婦の掛け合いに可笑しみを感じる位しか観るべきところがないのかもしれない。かく言う、クリエーターでもなく、将来信じるモノもなく、盲目的な愛の存在など信じない自分にとっても残念ながら同様の楽しみ方しかできなかったのが残念。一応この「残念」は映画に対してではなく、自分の感性の至らなさに対する「残念」です。
 ところで、映画の最後に出てきた坂道を川側に転がり落ちるようにそこの一部分だけに錘が仕込まれていると思しき「コーラの空き缶」、もしもその制作者の人生がオマケに付いているわけでなくもっと手頃なお値段でフリマに置いてあったら、買ったかもしれないです。

*1:例えば、「両親初めとする周囲の人との別離・死」「孤児となった孤独な少年期」等「将来クリエーターとして名を成す人にありがちな」才能の糧とするべく強烈な体験に恵まれながら、そのいずれも生かすことができないとか画商の言うことを鵜呑みにして自分の色を出せないとか

*2:「ダメな絵をいかに高く売りつけるか」が画商の腕と豪語する画商の存在、真知寿を初めて評価する画家が実は全く才能のない人物だったというエピソード(彼からもらったベレー帽を真知寿が後生大事に被っていることが「彼の才能の無さ」の象徴にもなっている)