『女は二度生まれる』

 枕芸者としての稼業から、同時に複数の男性と逢瀬を重ねる小えん(若尾文子)、やがて建築士の筒井(山村聡)に身請けされる。芸者時代の癖が抜けず相も変わらず奔放な男性関係を重ねる彼女の行動は筒井の知るところとなりある日激しく叱責される。それでも自分を許した筒井の優しさと誠実さに触れることで彼女の心境に変化が生じる。
 「初めは女として、次には人間として」の副題の通り、若さに任せ男達と奔放に女としての情に忠実な前半と、出会いだけでなくその後自身も含めて訪れるいろいろな形の別れの向こうに見えてくる自分以外の人生、自身も人間としての情を深めていく後半。この二つの若尾文子による演じ分けが最大の見所だと思う。確かに、物語前半で見せていた彼女の節操のない男性遍歴振り、お座敷・キャバレーと夜の世界を渡り歩き、情夫以上・恋人未満の男達の間を彷徨い歩く様、その全く地に足の着いていない様に対し、お囲い者になって後、無意識の内に自覚する自分の立場と同時に漸く地に着いてきた足元、やがて表層的にも意識・自覚するようになる「小えんの成長」の「いつの間にか、成長している(「二度目の生を受けた」)*1」感が上手と思う。ただし、映画は最後に至るまで真に彼女の成長「し切った」姿を描かぬ前に突如として終了する。前半に出会って「情ならぬ情」を交わした相手(山村聡藤巻潤山茶花究フランキー堺・あと一人忘れた*2 )とは、後半「その後の彼ら」を回収する形での伏線となり、彼ら自身の人生を歩む彼らと出会う事で、同時に小えんの成長の糧となって別れていく。最後の別れの場となった上高地線島々駅で次の列車の時刻を確認して微笑む小えん*3の姿に、この先の新たな出会い(と更なる成長)を予想させながら、ホームのベンチで待つ彼女の姿を遠景に物語は終了する。私の安易な予想がここで裏切られた結果、私にとってこの映画のラストは「寸断された」印象を強く受ける受ける。この寸断から強く感じたのは川島雄三監督が好んだかの「サヨナラだけが人生」の言葉。知識浅き映画読みの言、この感想はあまりに安易すぎるだろうか?

 (おまけ 「映画読み」変じてテツの言)
 「廃止された松本電気鉄道上高地線の(旧)島々駅の様子が写ってるぞ〜 当時の駅舎とホームと鉄道車両とついでに当時のゴチャゴチャした上高地方面行きバスターミナルの様子がバッチリ写ってるぞー 」
 映画に感動しながら、もう一つの心が、芽生えた感傷を蹴倒しそうで困った困った。

*1: それまでの受容的な彼女の行動とは打って変わって強気な相手への反撃、これは「二度目の生を受け」た事実への象徴的な出来事で、その相手として潮万太郎と山岡久乃がそれぞれ別の場面で凄くオモロく上手に演じる。

*2:気まぐれで声をかけた少年工。小えんの「奔放さ」及び物語の最後に至るまで「その奔放さを完全に失っていない」言わば「物語が小えんの完全な成長を終えずして、その途上において寸断される」象徴のような重要な役所なのにわかんねのが遺憾

*3:本当なら「小えん」でなく劇中の彼女の本名でらしくなるんだけど、ド忘れ。遺憾