『しとやかな獣』

 芸能プロダクションで会計を担当する三谷幸枝(若尾文子)は清純そうな外見とは裏腹に実は子持ちの未亡人。世知辛い世の中を渡るにはあまりにか弱く、受け身になりがちな自分の立場、ある日その立場を逆手にとって自分で生きる道を切り開くことを思い立つ。彼女が持つ「会社の会計を預かる」と言う立場と「女としての武器」を最大限に利用、プロダクションの社長・若い同僚・会計士・税務署員と周囲の男を次々と籠絡、横領に手を染めさせた上その金を自分に貢がせる一方、万一発覚しても自身は罪に問われないよう工作し、自身の人生計画のために着々と資金を貯めていく。
 以上「主人公」三谷幸枝の、物語が始まった時点の設定で、映画の表題「しとやかな獣」とはまさにしとやかな容姿の影でえげつなく男どもを操る彼女のことに他ならない。ところが物語で一番最初にクローズアップされるのは主人公の彼女でなく、彼女に騙された男の一人である職場の同僚前田実(川畑愛光)一家(父時造 伊藤雄之助 母よしの 山岡久乃 姉友子 浜田ゆう子)。伊藤雄之助が一家の長役であるこの一家、当然マトモであるはずがなく、会社の金を横領している長男、その抗議に来た職場の社長を夫婦で芝居を打ってあしらう、長女を囲っている有名作家に金の無心をする、長男はその名を騙って飲み代を踏み倒す等、身内他人かまわずとにかく他人にたかって生活するのを家訓としているような一家。自分たちの行動を悪びれるでもなく、むしろ「生きるため当然」と言わんばかりのその言動、彼らが住む団地の一室にしても元々は長女に用意された妾宅だったのが、一家が勝手に上がり込んできてそのまま居座ったという曰く付き。この部屋と、玄関出たその階の廊下と上下踊り場までの階段がこの映画における舞台の全て*1で、その狭い舞台の中、意外と思えるほど外の世界に繋がる多くの窓を持つ当時の文化住宅の特性をフルに活用、更にあらゆる角度からのカメラワーク、そこに映し出されるのは、主にそこで暮らす一家の生活。家事を行い、飯を食い、テレビに合わせて踊り歌い、子供の言動に無礼あれば叱りつけて躾け、来客があれば恭しく接待する。映し出される一家における当たり前の日常の生活、ただその中で語られるセリフの殆どが、いかに相手を騙し、いかに他人に効率よくたかり、いかに他人に取り入るか。この言動の不一致がこの上なく可笑しなところであると同時にその異常さに時々戦慄を覚える。特に伊藤雄之助が涼しい顔して行う天然に詐欺師然とした振る舞い・言動の数々に爆笑、同時に一見すると荒唐無稽な理屈の中に、何故かにわかには否定できない生きる事への懐疑という不気味さを感じる。映画の冒頭に、小沢昭一が「横領された会社のカネを抗議しに来る一人(名前「ピノ作」)」としておそ松君のイヤミみたいに外国かぶれの勘違いしたジャズシンガー役で登場、格好からして一発目の笑いを誘う役柄なんだけど、その後に繰り広げられるごく普通の格好した伊藤雄之助一家の言動の方が異常に可笑しくて、小沢昭一の立場がないのが(今観るからだけど)スゴイ。
 そんな一家の長男を手玉に取り、母親をして絶賛させることで「主人公」幸枝演ずる若尾文子の桁違いの悪女振りが強調されるという演出なんだけど、ちょっともったいぶってるなとの印象も否めず、また悪事のスケールとしては比べ物にならないくらい矮小、にもかかわらず彼女とは比べ物にならないくらい頻回に登場する前田家の面々が実際に目の前で弄する彼らの小賢しい策の前に、どーしても幸枝の印象は霞んでしまう。あるいはどちらかというと一般人に近いスケールの前田家の面々を逆に際立たせる意味であえて「主役」の彼女の存在をぼかしたのかもしれない。清純そーなOLとして登場、彼女を評する実のセリフを伏線として以後登場する毎徐々に悪辣な本性を表出していく若尾文子の演技は確かに魅力的なんだけど、やはりこの狭い空間で繰り広げられる愛憎劇の、その部屋の主という立場から常に中心となっている前田家の面々の(と言うか伊藤雄之助山岡久乃の)目の離せぬ言動の方に目がいってしまう。当初、開放的に見え外部とは容易に繋がっているように見えた文化住宅の構造は、住んでる人の都合によってこれもまた容易に外部と隔絶してしまう。その隔絶した空間で一家が揃って食う食事はやっぱりソバであるような気がした。なんとなく。

*1:例外的に「登場人物の人生の浮き沈み」を暗示する想像のシーンに、階下にある段数が長く幅が狭い階段も出てくる