『青べか物語』

 山本周五郎の随筆が原作。とある文士「先生(森繁久彌)」は、ネタに詰まり悶々とした日々を送る。そんな中行きつけの寿司屋から聞いたネタの産地「浦粕(千葉県東葛飾郡浦安町)」の名、工業化・都市化の著しい東京近郊にありながら未だ漁師町としての矜持を失わないその名前に興味を引かれ、喧噪多く落ち着くことのない東京を離れてそこで暮らすことで現在陥っているスランプから脱することができるのではないかととの思いを抱き行動に移す。ところがそこで待っていたのは・・・。
 さて、私は俗に「チバラギ県」と呼ばれる千葉県内の常磐線沿線で育ち当然小中学校もその圏内で過ごす。そのころ、市制施行したばかりの浦安市からの転校生がいて、物凄い勢いで「田舎モン」の扱いを受けていた。常磐線沿線の住民ははっきり言って千葉県内では「異端」である。その異端児からさえも人非人の扱いを受ける浦安の扱いは何なのだろう。昔から都バスが通り今は東京地下鉄が通る浦安市は千葉県民にとって「東京都の植民地」である。全国的な知名度から言えば浦安は「アメリカの租借地」がある場所として著名である。昔から埋め立て地で面積を広げてきた浦安市は、近年分譲を始めたマンションを中心とした海側の住宅地が一種のブランド化し、そこに住む人々は自称「マリナーゼ」と名乗っているが昔から住む浦安住民は「ウメタテーゼ」と呼んでお互い鋭く対立しているという。以上が現在の浦安のイメージである。そのイメージでこの映画に登場する「浦粕」を見ると、そのイメージのギャップに驚愕する。映画の内容は、江戸川とその支流と入り江と遠浅の海、それら全てをつなぐ水路が張り巡らされた「漁師町」以外に形容のしようのない場所、そこに住む漁師町であるが故なのかはたまた浦粕特有のモノなのか、とにかく一癖も二癖もそろった住民達が集う中、明らかに彼らとは異質の部品である「先生」の登場したことによって巻き起こる騒動を異常に濃い浦粕の人間模様に絡ませて描く。
 主演の森繁久彌の役所が、「あまりに想像を絶する住民が多くてカルチャーショックを受ける」という役所なので、脇を固める東野英治郎*1桂小金治加藤武左幸子フランキー堺といったいつもの「川島組」のメンバーがおかしなエピソードを勝手に創出、「喜劇の主人公」としての森繁はあまり目立たない。原住民それらのオカシな人々だけでなく夫の犯した過去の過ちから障害を負った妻に献身的に尽くす夫婦(乙羽信子山茶花究)の物語や自分たちを捨てた母親に「唾を吐く」事だけを生きる目的にしている少女の物語とかお涙頂戴のエピソードも紹介(けど喜劇だからなのか川島雄三なのだからなのか本気で泣かせる気はあまりなさそう)それらに関わるのも森繁の役所となるので、そのことはなおさら顕著。ところでその「オカシく」ないエピソードで廃船になった蒸気船に今も住む元船長のお話が出てくるんだけど、登場時の説明「町の人々が船キチガイと呼ぶ」で出てきたのが左ト全だったので「ほんとにキチガイじゃん」とツッコミたくなったモノのその後のエピソードがちょっと良いお話、また左ト全の演技が(当然の如く)良くてこれには「やられた!」と思った。
 そんなエピソードの数々を、今では想像すらつかない浦安の町の中で行われる。映画の中でも「時代を進むのを拒否している」とのナレーションが出てくるので、この浦安の町並みと人々の前近代性は当時としても奇異だったのだろう。この、失われた棄景と人々の生活振りを眺める事ができるだけで、懐古主義者ならずとも一見の価値あり。そして、ラストシーン、この地を後にする先生と入れ替わりに浦安方面に向かう土砂を積んだトラックの列、今後この地に押し寄せる変化の波の予兆を描写。もしかしたら将来この地がどのような姿に変貌するのが、川島雄三監督は的確に予測していたのかも知らない。恐ろしいことに。ならばなおさら、この映画でことさらの如く強調されるかつての浦安の風景の価値は重要である。

*1:初登場セリフ「いぇーーーーー!(「おーい」の浦安訛り、タブン)」が爆発的な印象