『愛のお荷物』

 売春禁止法成立前夜の日本、戦後爆発的に増加する人口に対して政府の介入・管理による抑制と、性倫理の健全化を政策に掲げる時の厚生大臣荒木錠三郎(山村聡)。一方では良き夫、良き父親であるところの荒木家では、その円満さとおおらかさを反映してか、まず錠三郎の妻蘭子(轟夕起子)が48歳にして妊娠の兆候が現れる。次に定職に就かずふらふらしてる長男の錠太郎(三橋達也)は付き合ってる大臣秘書の五代(北原三枝)を妊娠させ結婚を迫られる事態に。更に旧華族の出羽小路亀之助(フランキー堺)との結婚を控える次女のさくら(高友子)も式を前に妊娠が発覚、おまけに既に引退して箱根で悠々自適の生活をしている父親の錠造(東野英治郎)も嫁より若いお妾さんを囲っていて油断すると・・・。と、言うなれば「家庭の人口問題」の山積みに事態はのっぴきならない状況に。国事と家事、二つの頭の痛い問題を抱えた大臣のお手並み拝見。
 現在、「人口問題」という点で日本は悩みを抱えている。とは言っても、現在とはその問題の視点が180度違っているので、この映画で行われる「問題」を巡ってドタバタそのものがナンセンスといえる。一方で、悠久普遍と思われる事柄、特に強調される自身のご都合のために家庭さえ犠牲にするような政治家の姿勢。御政道を揶揄するに、落語・講釈の語り口を取り入れるのは川島雄三ならずとも日本映画の得意技(?)。川島映画のこの部分、多少落語に親しみのある私にとってはそんなに違和感無いのだけど、そうでない人はどう感じるのかな? その落語ではお約束、道楽者の若旦那そのまんまを三橋達也が上手く演じて良い。もう一人、別の道楽者役のあんまり登場しないけどフランキー堺、「元華族のぼんで仕事もせずにジャズ・ドラムに明け暮れている(そのまんま)」亀之助という役柄。対して同様に仕事をしない大臣の息子役の三橋達也が明け暮れているのが「ラジオ・無線いじりに常磐津」と東西不就労身分者の道楽対比がよくわからんのだが、実際に喉を見せる三橋達也にここでも感心。と、ここで気付く。もしかして私が感心しているのは、三橋達也の芸達者ではなく、当時のブルジョワ達のスマートな生活振りに則した芸達者振りなのかもしれない、とふと思ったりする。
 三橋達也ばっか誉めてるので、更に三橋達也に焦点当てて、この感想書くに当たって参考にしている「Variety Japan」内の映画データベースではこの映画内の彼の役柄を「時代劇スター」というよくわからない役が書いてある。これは作中で彼が三役演じているからで、映画の後半、「京都に行く」という事になって、その直後イキナリちょんまげ股旅姿で子供を背負い*1悪党と斬り合ってる三橋達也が現れ一瞬何が起こったかわからないシーンになる、この部分の役。確かに演じる三つの役の中で一番強烈な印象を残すのだが、件のサイトで何故ここの役名を三橋達也に振るのかよくワカラナイ。何が言いたいのかと言えば、淡々と観てる方の度肝を抜く川島監督の演出で、他に驚いたのが「孫の結婚を早めるために仮病を使う」役の東野英治郎に向かってその孫娘役が「おじいちゃん役者みたい。まるで東野英治郎みたいね!」とのセリフ、笑ったけど驚いた。本当に人を喰ってやがる。人を喰ってやがると言えば川島映画では外せないカメラアングル。印象的なのは「厚生大臣が赤線を視察、赤線廃止を抗議する売春婦と対峙」するシーン、全シーンでここだけカメラを斜めに撮ってる。なんの前触れもなくいきなり抗議する側が斜め上になる形でこのシーンになるもんだから、観てる方は何が起きたかよくわからない。「もしかしてカメラを?」って思ってる内にシーン変わって、もうこのようなアングルで場面は二度と登場しない。「もしかしてこれって絶妙?」。絶妙なのはこの奇抜なカメラアングルではなく、ヘタしたら全てをブチ壊しかねないシーンの使い方のバランスである。
 物語は、取りあえずの落とし所を得て、家族は誰も堕胎する必要はありませんでした、って意味で最後はめでたしめでたしなんだけど、人口抑制を取っ払った末に現れる次なる新たな驚異は、実に社会にとっても家族にとって更に深刻な影であって、簡単には終わらせない、深読みさせる*2、川島作品独特の読了感が次第に心地よくなっていっている自分に、一方の自分はどうかとも思う。それにしてもシネマ神保町で行われている「山田五十鈴特集」で観たのに、以上自分の文中山田五十鈴が全然出てこないのもどうかと思う*3

*1:「子供を背負って戦う」というのには深い意味があると思われる

*2:勿論、話しの筋も決して単純ではない

*3:山田五十鈴は端役ですが、かなり印象の強い役ですので一応補足。当然と言えば当然なのですね