『ラースと、その彼女』

 話題作なそうな。よう知らんけど。
 彼女、リアル・ドールのビアンカの姿が作中、一度として「ラース(ライアン・ゴズリング)の彼女」として写ることはなかった。その題名の意味と、映画の大まかな内容を知っていたにもかかわらず、最初から彼女が「彼女」に見えなかった理由、それが当初解りそうで解らず、困惑することで、映画がせっかく用意してくれた秀逸のユーモア*1に素直に笑うことが出来ない。映画も中盤になってようやく解る。「ラースがネット経由で購入した彼女は、彼の母親」。そうであった、抱いていた違和感は「母親」にもかかわらず「恋人」として扱う事への違和感、そうなると医師のバーマン先生(パトリシア・クラークソン)*2が少しずつ読み解こうとした彼の心の襞が「彼女」ビアンカに何を求めているのかが、目の前が開けたかのように理解。後は素直に作品が教える素朴な疑問・・・例えばビアンカの入院騒ぎの時、世界でもっともアコギな医者共が巣喰う保険業界からどうやって入院費を捻出したのか、とか・・・に楽しむことが出来るように。欄外の注に少し穿って述べたように、人々が聖書に書かれていること以外の善事を求め、受け入れるようになってからまだ日が浅いからこそ、この物語で描かれるラースとビアンカへの町の人々の関わりが特異な善事として感動を呼び起こすのかもしれない。作品の最初の方、ラースがビアンカに花を見せながら述べた「造花だから永遠に枯れないからね」との言葉、この時点で、この言葉が恐らく最後まで不変になるのでは、と一瞬でも思った事に、我ながらゾッとする。物語はちゃんと、人々の心が造花のように頑なだったラースの心に水と肥料を与え、永遠に美しいはずの彼の母親とこれまたこの上ない別れの場を提供し、彼の心と人生に変化を与える。ある精神的未熟児が幼児期に得ることの出来なかった母性愛をある依代に投影、再度成長の過程を辿ることで健全(?)な大人に成長する過程を追っている、私なりのこの映画の要約だが、私とて「造花の普遍性」にゾッとする程度の感性は持ち合わせる。だから、思った通りの結末に終わったことに正直ほっとしたのは、この映画が決して面白くなかったワケではないことの裏返しであろう。

*1:秀逸は「信心深い人々のラースの行いへ対する評価」・・・「あなたの所はイヌに服を着せている」とか、非常に無意味で生産性のない敬神論議は面白い、と同時に今世紀に至りようやく神を敬う心より人を敬う心が凌駕するという事実に驚愕もする

*2:綺麗で年増で未亡人で女医さんというシチュエーションと対峙する目的が治療目的のみという行為が拷問以外のナニモノでないことについてはこの際置いておく