『花影』

 数粒の錠剤を飲み込み、女は従容として死の床につく。脳裏に浮かぶは出会った男達のこと。
 公開年の1961年、同じ年に同じ川島雄三作品として『女は二度生まれる』が公開されている。どちらも「男から男へ渡り歩く女」の生き様を主人公にした映画で。更に次に公開されるのが『雁の寺』だから、笑いを要素としない映画を三作連続で公開。制作・配給会社の都合と言ってしまえばそれまでなのだが、約一年の間喜劇を離れ、続けて、段々と救いようの無くなっていく物語、これを撮る監督の心情は非常に興味ある。やはり「生活のため」とはぐらかすのでしょう。
 女給として銀座のバーで働く、言い寄ってくる男と次々と恋仲に落ちる、その中の一人に囲われることもある等、主人公の葉子(池内淳子)の役所は『女は二度生まれる』で若尾文子が演じていた小えんと通じるところがあるんだけど、数々の男性遍歴を経て最終的に辿る道は全くの正反対。物語の中では予め彼女が最終的に辿る道は予告されており、それに至る過程が描かれる形で物語は進む。彼女がそのような道を辿ったのはひとえに情深きが故の献身的な性格のためと、どうしても夜の蝶として稼業柄、金銭的な介在を離れたところに男性としての理想像を描きがち。当然の如くそんな解りにくい男が理想の男性であった試しはなく、その幻影への幻滅が訪れた時、いつも手ひどい別れとなって。彼女を巡る男を演ずるのが池部良有島一郎・高島忠男・三橋達也。自分の理想とする男など存在するはずがなく、彼らだって大小の差はあれ、ダメな部分は持っている。物語を通じて本当にダメなのは彼らのそのダメっぷりを見逃すことが出来ない彼女自身の完璧主義というか無い物ねだりというかそんなダメっぷりが最大の見所。男から見ればこれは「(俺と一緒に幸せになることへの)踏ん切りなさ→これ以上どないせーっちゅうんや→このクソアマ他に男いるんちゃうやろか」の三段活用に陥る以外ないわけであり、手ひどく別れるのも当たり前の話し。付き合い始めの可愛らしさ*1が男から見て変容していくように見え、段々と広がる乖離、その末のドロドロが見せ場なワケですけど、その合間に挟まれた印象的なシーン・・・例えば名実共に化けの皮を剥がされた佐野周二池内淳子と共に焚き火の前で自嘲気味に過去を語るシーン、例えば有島一郎の元での「母」としての自分を想像、束の間、幸福な自分を垣間見るシーン、これらの純粋っぽい美しさがとても良い*2。そして、一番初めに別れた池辺良と風に花弁が舞う夜桜の下で束の間の逢瀬を遂げるシーンの美しさたるや、ここまで散々パラ醜い修羅場のシーンを重ねてきたこの映画の目的はこのシーンを魅せることだったんじゃないかと思わせる程。そして散る桜を後に、彼女は死への歩みを早めていく。それにしても、堅物ぶっていきなり女をぶん殴る有島一郎が何気に凄く良い。

*1:所謂男から見た都合の良さ

*2:この2シーン共に登場する男性が作中1・2を争うクソ野郎というとこともミソ