上野の阿修羅(さん)

 突然だが、最初にあの阿修羅像に対しての敬称を考えてみる。まず、仏とその僕の場合なら、当然帝釈天、引いては仏に立ち向かう、それも一度ではなく何度も何度も何度も何度も永劫立ち向かう不倶戴天の仏敵に対して敬称など付けないので、「阿修羅」の後には「め」で鉄板。更に「が」が付けばその名を口にすることとさえ唾棄すべき、感が伝わって尚良い。が、私は別に仏の僕ではないのでこの敬称は使わない。そもそも敬称ではない。早くも面倒くさくなったので無難に「さん」でいいやと心の準備をするにはしたが、朝から1時間近く待たされようとはこの時全く予測はしておらず、仕方ないので待ってる間ちくまの「内田百間全集」の内『冥途』を読んで待つことにする。順々に読みながら、よりにもよって『遣唐使』に行き当たり、お陰で作中「隣の女」の顔は悉く「阿修羅像」の顔に。因みに「私」は百間の顔。こんな想像が頭を離れないのはそもそもが「私は遣唐使となって支那に来た。一緒について来た者はどうなったか判らない」などという唐突な書き出しが悪いのであって。もしかしたら「一緒について来て」「どうなったか判らない」「者」も阿修羅像の顔をしていたのかもしれない。そうに違いない。
 最初に会ったらどう挨拶しよう。やはり合掌が無難か? などと考えながら他の展示物をスルーしていると案外簡単に辿り着く。阿修羅像の部屋へは少し高所から入るように出来ているためか、ライトに照らされ浮かんで見える阿修羅像、発している光は外部のモノであるにもかかわらず、自ら光を発しているように見え、闇に逃れ飽くなき帝釈天への怒りを燃えたぎらせるモノか、或いは今当に天界を追いやられ身は深き六道の闇に包まれながら身には未だに纏う天界の衣の発する光のみが嘗ての神聖の名残とするのか、などという妄想は、彼の像に近づくにつれ、その周りに多く集う余りに大勢の人々、その波に囲まれて前屈み・うつむき加減の姿がどう見ても困惑しているようにしか見えず、光より速く萌える。
 しばらく遠目に、少し高い位置から眺める。やはり困っている。困りますよねぇ。三対の腕の内、掌を上に向け、天を支えるようにして構える腕も今日ばかりは少し下方から止めどもなく送られる怪しい視線を遮るために使えば良いのにと同情してしまう。そうこうする内に初対面なのに挨拶するのすっかり忘れる。仕方がないので「まだ目が合ってないから」とかテキトーな理由を付けて目が合ったら挨拶しようとか新たな約束事を心の中で結びつつ自身も怪しい視線に混じるべく近づいてみる。
 彼の阿修羅像が見下ろす下界。思った通り彼(?)には近づけない。人並みの適当な隙間に入り込むべく少し遠巻きに人の波で出来た輪を眺めていると、この輪の大きさに耐えきれなくなった者どもが整理員に絡む絡む。ぐへへ・・・当に下界は修羅の巣、阿修羅像を観るに願ってもいない混沌と化す。この有様を、その澄んだ瞳で、まるで困惑するかのように見下ろすとはさすが阿修羅さん、なんてお人(?)の悪い。心の内の修羅に目覚めぬように、適当に阿修羅さんに近づく。
 まずは正面。まだ遠く、人垣の切れ目切れ目から現れる修羅とは名ばかりの童顔に魅入られる。彼の像が人語を発しようモノなら、その現に惑わされ、人を殺し、仏に仇為す輩は簡単に生じるな。
 まだ正面。もう少し近づいて、目の合う角度を探す。何故か、不思議なことになかなか目が合わない。人垣人波掻き分けてみてもなかなか彼の目の合う場所が見つからない。修羅に魅入られる場を得ない事こそ幸せなれど、ここまで彼の目に止まらないとなると「ああそんなに私が嫌い?」と嫉妬の気持ちにさえなる程に、「あの視線に入りたい」との気持ちが高まる。あなおそろし。と、不意に、予想もしていなかった位置に彼の視線のあることが判り、身構える間もなくその視線に入る。すると、突然、震えるほどの高揚、そしてその瞬後に訪れる途方もない照れ、たぶん今私の顔は紅潮してる。動揺したせいで、またもや挨拶するのを忘れる失礼。仕方がないので遠巻きに合掌して誤魔化す。
 「もっと近づきたい!」 あの眼差しを避けておきながら、いざそれを遠巻きにすると今度はより近づいてその姿を、今度は拝むのではなくよく見てみたい。そう思い、再び像を囲む人波の中へ。像の周囲をぐるぐる回るよう整理員に指示されてはいるモノの、既に修羅と化した群衆にその言は届かず、よってすいすいとはいかずにうぞうぞといった感じで少しずつ像に近づく。結果、一番近づいたのは彼が背を向けている時。たすき掛けに線状の衣を羽織った背中は思ったよりのっぺりとしている。期待したほど背中に魅力は感じないが、背に回ったまま、三対の腕もろとも軽く羽交い締めにして、そのまま正面のお顔の頬お撫でることが出来たらどんなにか楽しいだろうか。もしくはそのまま腕を腹に回して腹に触ってみるのも良い。脇の下に手を入れてくすぐってみるとどの顔の表情が変わるだろう、そもそも脇の下のどの辺りが急所だろう。脇の下に手を入れられ、くすぐられてながらもあの憂いの表情、が違和感なく似合っている。もっとも近づくことの出来たのが背面だったせいで、大変穿った情愛にも似た気持ちを抱くことが出来た。彼の娘がもしも彼似だったのなら、帝釈天の情欲を抱き我を止められずの念押さえがたきがよく判る。推し量るに、帝釈天は物凄いロリコンだったに違いない。
 興福寺展を出て、帰りがけに久々に彼ら↓に出会ったので挨拶して帰る。なんだか元気そうで何より。