その九十六 夷隅郡大多喜町栗又 『御滝の入り口』

sans-tetes2009-04-13

 養老渓谷駅脇の踏み切りを跨いで、養老川の渓谷に沿って南へ南へ・・・「栗又の滝」がある場所は一昔前なら恐らく秘境と呼ばれる場所、今は滝目当てに集まる客目当てに集まる店・宿が軒を連ね、とは言っても絶望的に平地が少ないので連ねてとと言うわけにはいかない。限られた平地をなるべく有効に利用するべく、所々その場所を確保しているといった方が正しい。そのため、余所者が車を駐めるための場所などそもそもあろうはずはなく、この狭い幅の道に路駐することはかなりの悪徳だ。
 恐らくは、今もその景色から垣間見える嘗ての秘境に客を呼び込むべく人々の先頭に立ちこの場所を切り開いたとある宿屋の初代の主が、今や立派な旅館を作り上げ、その返す刀でもって今度は何を作ったかというと、この場所に富の恩恵を与えるそもそもの宝となる御滝の整備。その意気込みは、御滝の入り口を飾る謎の門に十分表れている。ただの門ではない。繰り返すが、この場所に富を与える神聖な滝への入り口となる神聖な門である。その門を「ただありきたりな意匠でもって飾るには気が引ける」、また「この門をくぐって崖下の滝へ至る客に十分にこの滝の神聖を感じさせよう」そう思ったかどうか定かではないが、いずれにせよこの客を迎える在り来たりでない門とその周囲に散らばるなんといって良いか判らない様式を誇る彫刻の数々は、間違いなく神聖なモノだ。その証拠は、このように作者自らその旨を誇示する文言により明らかである
 その文言がより神聖な立場の人との会話に近いためか、凡人にその意味の容易に判読しづらいところがまた味であるが。
 現在、その惨憺たる苦心の跡は、残念ながらきちんと管理されている様子はなく、或いは朽ちるに任せ、或いは伸び放題の葛に覆うがままに任せ、本来なら自然と溶け込み、客の通るのを静かに見つめるばかり・・・と成ろう所が、この型にはまらない造型の妙
その印象的な色彩の美をもってしてそのように朽ちるに任せる事を絶対に許さない。
 許さないのはこの像だけでなく、どうやら作成の内に作者の方まで何かが許せなくなった様子が墨書きされた文言から伺える「行楽日苦心惨憺阿呆かいな」
今では無造作に並べられているだけなので、時系列的にどのような順番でこれらの木像が作られたのか調べる術はないが、恐らくこの像はかなり後に作られたに違いない

何というか、その動機は「良かれ」と言う思いに間違いはないのだが、思い詰めたように仕事に勤しむオーナー創業者が誰の諫言も受けずに突き進むと、生み出される造型はみんななんだか似通う。と言うのはこの造型と文言に『神秘チンチンニコニコ園』を思い出したからだ。かの園の社長さんは大変真面目で親切な魅力溢れる人格者だったので、こちらの方もそんな感じの人だったのでしょう。門に接して隣にこれまた不思議な形の家屋があり、その庭側の窓辺に多く木像の置いてあること、今では長いこと使って無いとおぼしき外から見える書斎の様子からこちらの創業者さんはここでお仕事に勤しんでいた様子。
 絶え間なく聞こえる滝の音、その音に包まれてこの門をくぐる人々はどのような思いを抱くのか? 私が居る間に通りがかった人たちは残念ながら余り関心はないようだった。改めてみると確かにこの場所に損するこの門の評価は一概に定めがたい。ただ、何となく「ありがたそうだ」という直感にほぼ間違いは無いようだし、せっかくなので門の裏側の斜面に祭られている軍荼利明王像を拝んで帰る。