その九十七 中野区白鷺2丁目 『庚申堂』

sans-tetes2009-04-15

 もう限界までギチギチに家屋が迫り、家間にはネコの這い出る隙間しかないような、そんな景色が延々と続く東京の狭い道は好き。中杉通りはそんな道だけど、「好き」と言うだけではなくお家に帰るのに便利な近道なので結構重宝している。それなのに、いつも通り過ぎるだけのことが多く気づけば申し訳程度の挨拶しか交わしたことのない石仏数体が並んだお堂、結構無茶な運転をしている割には今のところ都内での事故はない、ということでその御利益の何分の一かは担っていると思われるこの旅の守り神を訪問。「お世話になってます」
 馬頭観音が2体、地蔵菩薩が2体、もう一体聖観音像の計五体がな並ぶお堂、それぞれの前に満遍なく供えられた季節のお花はまだ瑞々しく、もう少し道路側には鉢植えの草花、やはり青々と元気な様子。この様子がお堂の両端に奉じられた千羽鶴の色褪せ具合と対するようで面白い。思い・願いは色褪せても残る。
 この一体だけの聖観音像は割合新しく作られたモノのようで、目鼻立ちがはっきりと、その頤の鋭利さは美しい部類に入る。が、私的にはお隣の、長い間風雨に晒されもはや目鼻立ちのはっきりしなくなったまん丸顔のお地蔵様が好き。必要なモノさえ削ぎ落とされたお顔のリアリズムの欠片も感じさせない仏っぽさがまた良い。もちろん、常人に倍する腕と頭を持つことに何の脈絡もない馬頭さんの怒り顔も良い。腕の欠落が更に良い。
 いつも通りかかるのは夜中、ひどい時には日付を回った後であることがほとんどなので、まずこのお堂の前で人の立ち止まるのにお目にかかったことはない。この日はこの場にいるのは某イベントの関係で夕方、休日でもあるので人通りもそれなりに。その中から、親の手を振り払ってお堂の前で立ち止まるガキが一人。このお堂の意味はわからないが、何か「すること」が必要との直感は幼心にも有するよう。さすが親だけあって、こういう場合のどういう対処を落ち着いて後ろから教える声に、少しは従うモノの、やはりその意味に戸惑いながら、だがその儀式の一部を凄く気に入った様で、もう帰ろうとする親の言に耳を貸さずまだしばらくお堂の前にたたずむお子様の口は呆然と開いたまま。儀式が好きなら学校入って学級委員になると良いぞ。