『にっぽん泥棒物語』

 まだ終戦の混乱の直中、昭和23年のこと。福島の寒村で腕の良い歯医者と評判の林田義助(三國連太郎)、実は歯科医は無免許のもぐりであり更に「妙見小僧」の異名を持つ凄腕の蔵破りでもあり前科3犯の札付きである。全ては老いた母(北林谷栄)や妹(緑魔子)を養うための生業であるとはいえ、そのせいでことごとく縁談が破談となる妹には憎まれ母親からもことあるごとに真人間にあるよう説諭され、半ばヤケ気味に罪を重ねる。そのうちにひょんな事から足が付き凄腕のベテラン刑事、安東(伊藤雄之助)に挙げられ遂にお縄、仮釈放中で娑婆に出たのを幸い懲役前の最後の仕事にと留置所で知り合った馬場(江原真二郎)と共に目を点けた商家の蔵に忍び込もうとするが、その時東北線の線路上で怪しげな男達の集団と行き合う。肝心の蔵破りの方はまんまと失敗、ほとぼりを冷ますため身を潜めていると大音響と共に村中大騒ぎしているところに行き合う。近くの杉山駅付近で故意の妨害により列車が転覆したというのだ。その後義助は拘置所に戻り、裁判を待つ日々を送るうちに所内で例の「杉山事件」の容疑者の木村(鈴木瑞穂)達と知り合う。危篤になった母親と義助のために仮釈放を求める監獄闘争を行ったり男気溢れる木村と接し、またあの夜線路沿いで出会った怪しい集団を事件の犯人と目する義助は木村達が当然の如く無実になるものと信じていた。その後刑期を終え、名実共に真人間となり、妻と子供を得る幸せを築いた義助の元にニュースが入る。杉山事件の被告が死刑の判決を受けたという。
 アカ監督がと侮ると痛い目に遭う山本薩夫作品、本作も当初はやたら詳細に蔵破りの手口を語る泥棒モノかと思いきや「杉山事件」を境にミステリーじみた展開に至り最後は法廷劇に終わる。個人的幸福を守るというエゴに引きずられ恩人に報いることが出来ない義助の苦悩を三國連太郎に実に上手に表現させながら、一方で戦後吹き荒れた共産党への迫害の歴史を紹介することも忘れない。「泥棒」「受刑者」「歯医者」「名士」「父親」とそして「法廷の英雄」、主役であると同時に「監督が真に訴えたい事」への狂言回しでもある林田義助という人物の時の経過と共に変容・獲得していく幾つもの顔を三國連太郎が気持ち悪いくらい上手い。気持ち悪いと言えば私の大好きな伊藤雄之助、今作でもその気持ち悪い魅力が全開で大満足。執拗さと悪びれの無さがまるで一昔前の刑事の美徳であったかのような安東刑事、本領はやはり、杉山事件起訴事実の誤りを知りその事実を告発すべきか迷う義助の口を封ずるべく、温泉宿に連れ出して酒を飲ませながらの脅しすかし、あの手この手で自分の都合の良い証言を得ようと一晩架けてなだめすかすシーンの、タヌキキツネよろしく芸達者な2人の掛け合いは本当に目が離せない。
 福島で起きた事件を中心に、福島に住む人々を中心に進むこの映画の中では、セリフは殆ど方言。はっきり言ってセリフの意味がよく解らん部分もあり。こんだけ福島弁ばかり出てくる映画は他に渡辺文樹の『ザザンボ』くらいしか知らないが、『ザザンボ』が方言中心で話を進めて地域の因習・閉鎖性を強調していたように、この映画でも方言中心に話を進めることで時にそのことが非常に効果的な演出になっている。例えば事件前夜に行き合った犯人と思しき男達に「訛りがなかった」こととか、最後に義助が東京の法廷での証言を方言丸出しにすることによって彼の純粋な正義感の強調とそれ故に法廷にいる人々が彼を徐々に英雄視する様子、検事に代表される卑劣な権力の横暴との対比を恣意的に際立たせるのに一肌脱いでいる。けどやっぱり一部言葉が分からない。
 「私はこの10年間人間の幸せがどーいうものかということをずっと考えていた」最後に義助が法廷で語った言葉だが、彼が「個人的な幸せ」を捨ててまで「幸せ」と考えるに至った出来事は、言うまでもなく上野駅での木村とその子供との別れのシーンであり、「10年間金網越しでしか会えなかった」というこの無実の罪を背負う親子の言葉に思わず子供を引き寄せて話をするシーンは悔しいけど涙モノ。一方で、義助の考える「個人的な幸せ」を捨てる覚悟を決める出来事が他ならぬ他人様の個人的「幸せ」であったことに矛盾は生じないのだろうか? 感動的なシーンの傍らそのことはちょっと引っかかった。いずれにせよ、昔の上野駅ほど別離のシーンがよく似合う駅はない。東京都内ならやはり東京駅ではなく上野駅がスキ。って最後結局はそこかよこのオタクが。