『復讐するは我にあり』

 せっかく三國連太郎主演映画の感想を書いたので、その繋がりでまたまた嘗て観た映画の感想のお付き合いを。

 大分県築橋駅近くで強盗殺人事件が発生する。二人は専売公社の職員で、集金した金を狙っての犯行、警察の捜査上に容疑者として嘗て専売公社で働いていた榎津厳(緒形拳)が浮かび、指名手配する。ところが厳は宇高連絡線の船上で遺書を残し投身自殺したと見せかけ、警察の捜査の網をかいくぐり全国を行脚、その間も同様の犯罪を繰り返す。事犯行、特に殺人を犯すに当たっては血も涙もない彼の行いに、故郷の長崎・五島で暮らす信仰深い父親・鎮雄(三國連太郎)と息子には甘い母親・かよ(ミヤコ蝶々)、それに厳によって半ば強制的に妻にされた加津子(倍賞美津子)の家族達は大いに心を痛める。厳自身も洗礼を受けたクリスチャンであったが、嘗て無理な供出を強いる軍人に対して何ら反抗する事のない父親への反発から非行に走り世間と刑務所を行き来するように、その最中にも父への不信、特に自身の留守中の妻加津子との関係を疑い家族への暴力、世間への悪事にと拍車を掛けている。詐欺に殺しに女、そんな逃亡生活を続ける厳は浜松に潜伏、宿と女の手配を営む浅野ハル(小川真由美)ひさの(清川虹子)親子と親しくなる。同じ日陰者同士のニオイを感じるのか、厳の正体に薄々感づきながらも見逃す風を見せる親子と家族同然に過ごす厳だが、ひさのの不在時、突然ハルを無言のまま絞め殺す手。後に彼はこう語る「何であの親子を手をかけたのか、わしにもわからんじゃったぁ・・・」。
 「あんたを殺すべきだった」 自身、真に殺すべき相手が誰だったのかわからないまま、もしくはわかっていたにもかかわらず最後まで手にかける事ができなかった、結果罪を犯し続けた男が最後に「懺悔」するのは他ならぬその「殺したかった相手」。この複雑にして特殊な親子関係を、まるで競うが如く演じる緒形拳三國連太郎の演技に圧倒。二人の行動は善と悪という「モラル」という境界でもって互いに全く対照的な言動を行っているようだが、何故か「悪」の息子の行動は明るいイメージで「善」の父親の方は暗いイメージに見える。とっくにぶち殺してタンスに放り込んだ被害者の「爺さん」にすき焼き食いながら怒鳴る緒形拳より余命幾許もない病床の妻に嫁のとの関係を疑われる三國連太郎が極悪人に見える。心に生じた欲望に忠実となれず、むしろそれを極端に抑え込む、信仰心の為せると言えば聞こえがよいが一方で大変不健全な、「行動しないという行動」の判りにくさが不気味で、それを三國連太郎が苦悩を隠しもせず表現するもんだから、観てる方としては素げぇ気持ち悪く感じるのだと思う。その行動に対して適切な評価を与えず正反対の印象を残す演技は凄い*1。だから、最後のこの二人が直接「対決」して別れるシーン、「わしは、おまえを絶対許さんけん(三國)」「俺もおまえを許さんけん!(緒方)」で私が「許さん」と思ったのはやっぱり三國の方。だって、倍賞美津子にあんなにエロくに迫られておいて背中から一瞬掻きむしるように抱きしめただけで背を向けて離れてしまったのだからあんたは極悪人だ。「お父さんはずるい!」
 時々妖艶なのが魅力となる嫁と微妙な関係を保つオヤジに対して、やっぱどこか影がありそれがまた怪しい魅力となっている小川真由美とくっついてる息子の方も、こうして文にしてみると「ああ親子なんだねぇ」と言う感じがしないでもない。絶対にシンパシーを感じているはずなのに、何故かその母娘を手にかける、しかもその決断がまったく感じられないまま行動する緒形拳の無表情さ、これは苦悩の表情だけで何もしない三國連太郎との対比のようだ。それにしても、この「唐辛子で赤く手を染めた、割烹着姿の」小川真由美が、これからの自分の運命を知らずに殺人者の手を口元に近づけるシーンの彼女はひどく透明で美しい。これから死ぬのに。

*1:ただ単に私がひねくれているだけかもしれないが