その百十三 さいたま市中央区新中里『中里稲荷神社』


その昔、買ったばかりの車が嬉しくて昼夜となく乗り回していたあの頃、もう1時は過ぎていたか夜中の国道工事渋滞、車は丁度この神社の前で渋滞待ち。国道の明かりの届かない薄暗い闇の向こうに神社と墓地が並んでいる。今も昔も目の悪い私は興味深い景色を角度を変え目を凝らしてよく見ようと試みる。すると後ろの車が私の不審な行動に気付き「何か見えるのか」とばかりに後ろの車に乗る人までその方向を見凝らすウチに動いた前の車に気付かずそのまた後ろのトラックにクラクション鳴らされ私に釣られた形となった縁もゆかりもないあのカップルは元気だろうか。
 そんなこんなでいつか行ってやろうと思って実際に参拝するまでに結構な時間が経ってしまったこの神社、良く通りがかりに夏は夏祭りの飾り付け、歳末は正月前の飾り付け、時期によっては割と活気のある様相を見せるモノの、私が参拝した日は当然の如く他に参拝者のいなさそうな日中のうらびやかな午後、一方で風は強く、拝殿前、賽銭箱両脇に盛られた盛り塩、円錐形は跡形もなく吹っ飛ばされていた。いつ頃盛ったモノだったのだろう? 
 街道から眺めると随分と木々に覆われている様に見えて実際に境内に入るとそうでもなく、境内周縁囲むばかりの鎮守の末裔、嘗ての姿を想像すると心許なさは否定できないが、社前にぽっかりと空いたように日が当たる様は参拝者自身のうらぶれ感を増すようで却って心地よい。そのこうしているうちに一時止んでいた風がまた強く吹き出し、境内の色んなモンを吹き飛ばし始める。その内に3月とはいえまだ力の足りない太陽がやる気無さそうゆらゆらと動いていくモノだから社の周囲の木の影が伸びて境内真ん中の日溜まりを覆う。影が差すとまだまだ寒いので参拝者は温もりを求めて自然自然残り陽を求めて、気付いたら一番日が射すのは神社、拝殿の扉の格子の間からだと解り体を寄せる。拝殿と本殿との間に渡りが設けられてないためで、拝殿・本殿間のスカスカ感が一人孤立したような寂しげな印象を本殿に与えるモノの、そのおかげで参拝客には尊い陽の光、神が降りる感とはこんな感じかとなと思ったりする。すかさず願いを述べればその願い叶う哉叶わざる哉、私はこのシリーズでお参りの際よっぽどのことがなければお願いをすることがないのでそんなチャンスが来てもうっかり逃しそうだ。
 境内には幾つか摂末社。もはや見ないことはない、と思われるお稲荷様始め珍しいのは「成田山の分霊」が存在。昔の神仏習合の名残か、氏子の参拝記念に新たに勧請したモノか、昔の名残であるのなら山岳信仰バリバリの山中ならいざ知らず平地の都市近くで神仏習合の名残が残るのは珍しい。塀を挟んですぐ隣が寺院と墓地であるのと関係ありそうだが、この寺こそ或いは昔の神宮寺であったかその名残であろう。神社の境内に仏教由来の跡があることに厳密にこだわるほど偏狭ではないが今回お参りはよしておく。成田山は将門様の敵なので。