その百十八 結城市結城『聴敏神社』


 結城城趾を見たくて市街から歩く。それはもうてくてくと。中世から続く平山城の結城城、現在公園として整備されその一角、聴敏神社があるのは城の縄張りの中である。
 「聴敏」とは江戸時代の結城藩主家水野家の結城藩主としての初代水野勝長の号で、その徳を顕彰するため子孫によって建てられたのが聴敏神社の謂われとのこと。城跡を訪れたかった理由は中世の城の痕跡を見たかったからであり、正直藩政時代の痕跡には興味がない。
 先に述べたように城域内は公園として整備されている。城郭跡にやたら天守状の構造物を建てて「復元」と称すること、さすがに最近は控え目になったためあまり見ることはなくなった。どこの誰だか知らない企画者の、その有り得ない無知さ加減と周囲より明らかに浮いた景色、私的には絶対に受け入れられないということはなく、むしろ楽しみとすることも多いためそのような「城跡」を全否定するつもりはない。が、この場所については整備後「普通の公園」にしたことは良かったのではないかと思う。中世の痕跡はおろか近世の痕跡も一掃されているお陰で、むしろ思うがままの想像を現在の城跡に載せることができる。公園としての結城城趾は現在は桜の名所として市民の目を楽しませる。この日(平成21年3月初め)はまだつぼみ。
 それでもわずかに中世の痕跡が残っていないか、往生際悪く公園を彷徨ってみると、公園の真ん中からやや北側に石造りの鳥居のみが建っていることに気付く。鳥居を潜ってもその先に社はなくそのまま進めば公園を抜けて域外へ。城跡のこの方向は湿地帯となっていて現在は多く手つかずの荒野が残る。この方向からは城攻め難い。何となく、この方向のみが中世の面影を感じる。例えば荒野一面を雲霞の如き軍勢で覆ってみることにする。軍勢より上がる幟には幕府方、上杉・今川・武田等の紋、城はまもなく落城を迎える。これより関東戦乱の世に至る。また別の場面、里見父子の別れより南総里見八犬伝の物語の始まる。
 かつての城内社の名残かとも思ったが結局鳥居の正体は判らず。聴敏神社の方に目を移すと賽銭箱等に水野家の紋。それに水野家の前封地福山から送られた記念樹。当たり前といえば当たり前だが境内に残るのは水野の殿様のことについてのモノのみ。お参りはしたがやはり興味は沸かない。水野の殿様スイマセン。