『東京裁判』

 初めてこの映画を観たのは確か中学の頃、テレビの深夜枠で。死刑にされたA級戦犯の名前が言えると格好良いと思っていた、死ぬほどイタかったあの頃です。肝心の極東軍事裁判のそのものの意義と、明らかに「勝者対敗者」の図式であるにも関わらずその場を舞台に繰り広げられる熾烈な法廷劇の意義も判らずに漫然と観たモノだから理解できるわけがない。この当時からこの映画を面白いと思える感性を持っていたのならもっとマシな大人になれただろうに、にもかかわらずほぼ完徹で寝ずに観ることができたのは今思えばナレーションが佐藤慶であったこと以外に思いつく理由がない。大抵の大河ドラマに登場する際はまず悪役の佐藤慶が好きな中学生と『東京裁判』を面白がりながら理解することが出来る中学生、まもなく起こるであろう日本国文化大革命で先にぶっ殺されるのはどちらだろう?

 さて、数十年ぶりに観賞した大作ドキュメンタリー映画東京裁判』、冒頭で書いたとおり今観るととても面白い。この映画を面白く思える要素は三つ。まず一つは「現代史・昭和史の貴重な記録」として。もう一つは「極東軍事裁判という歴史上最も有名な法廷における法廷劇」として。そしてもう一つが「佐藤慶のナレーションを楽しむ」。お好きな人にはこれだけでタマらない・・・。
 長大な映画の目的は、昭和21年4月より始まった極東軍事裁判の特にA級戦犯を裁く通称「東京裁判」と呼ばれる裁判について、「なるべく中立的な視点」を意識して制作。その「中立的な視点」を意識したため、その目的、その裁判に至るまでの流れをなるべく映像を中心として資料によって説明している。大体の歴史の流れを理解していればこの部分はそんなに重要でなく、正直退屈。ただ、映像資料の紹介を重視する余り、単調になりがちなこの「流れ」の述べる部分は、「全体的な流れ」と「全体的な流れ」の間に東京裁判に直接つながる「流れ」もしくは裁判に直接関わる当事者達の足跡を織り込んだ「流れ」を挟む事で、なるべくメリハリを付け飽きさせないようにとの編集の努力は見て取れる。ナレーションを担当した佐藤慶のエピソードによると*1編集の結果得られる上映時間を巡ってなるべく長大にして(多くの資料を使いたい)監督の小林正樹とあまり長くなると一日の上映回数が限られ(て売り上げに影響が及ぶ)る興業会社側とで大激論が交わされていたとの事。制作に当たって「中立」を旨とした小林監督の言葉とは裏腹に、監督自身の感情が映像を介して伝わる部分、かなりあったと思う。直接的な言葉を介さず、長大な映像と画像の組み合わせを通じて意志を伝える手法、まさにコラージュのみによって一枚の広大な絵を紡ぎ出す事に似ている*2
 「全体的な流れ」に挟まれた「裁判に関する流れ」、両者が時間的に近づいていき、重なった辺りで実際の裁判が始まる。先ほど述べたようにここまで「非常に退屈」だったため、ここから始まる新たな展開とようやく始まる裁判の本筋に多少は目が覚める、とは惰性に慣れる事を常とする人間にとってこの切り替えは以外と難しい。この惰性を断ち切ってくれるのが恐らく、裁判中最も有名と思われるシーン。つまり「大川周明が前列席の東条英機の(ハゲ)頭を平手で叩く」シーン。映像における歴史証言の妙と言うべきか、結果的にこれから始まる裁判に殆ど影響を与える事のないこの椿事が、鑑賞者への刺激となり鑑賞への意欲となる、この場面をもしも狙って編集したというのなら恐れ入る。最もこの場合恐れ入るのはもちろん監督に対してではなく大川周明に対してだが。叩かれた東条英機が苦笑の笑顔を見せているのも珍しくて新たな刺激になる。そして、佐藤慶のナレーションは淡々とこの事実のみを伝え、大川周明はMPに挟まれて踊りながら退廷する・・・。
 映像、音声、ナレーションの妙は何も梅毒疑いの国家主義者の狂言のために最大限に機能するのではない。その後本格的に始まる裁判の流れもこの機能を最大限に利用して平面的にしか残されていない法廷の様子を最大限多角的に再現して臨場感を盛り上げる。これから始まるドキュメンタリーは歴史の事実を映し出すと言うより、とある裁判の法廷劇のドキュメンタリーと言った方が近い。未来、歴史における重要な意味を持つ法廷同様巨大な意味を持つこれまで例を見ない罪状の容疑を裁く巨大な裁判。当事者達も皆その道の大物達*3。この史上最大級の「法廷劇」が面白くないわけがない。はっきり言って、今まで観た法廷劇を扱ったどんな映画でもこれ程面白い法廷劇を再現できた映画はないと、言うほど映画を観ているワケでないのが弱いところだか、とにかくこのリアルに「再現」される法廷模様に終始釘付けになったまま、以後の鑑賞中全く退屈する事はなくなる。
 冒頭行われる「そもそもこの裁判自体が成り立つかどうか?」という根本的問題を巡る熾烈な議論からして目を離す事が出来ないのだから、実際に「この裁判の主役達」被告人達が証言台に立つ被告人質疑の場面においては興奮は頂点に高まる*4。圧巻はやはり「被告人の中の被告人」つまり「主役中の主役」と言える東条英機への質疑と応答。「裁判前より明らかに死刑の決まっている唯一の被告」「大日本帝国軍事独裁者」「被告人は裁判中一度しか証言を許されない」等、どう考えても有利な条件が一つも揃わない状況においてこの人物はどのような態度と戦術で法廷に臨むのだろう? ほぼこれしかない、或いは「許されない」だろう戦術を以て堂々と答弁する(「あんたの通訳が悪い」と通訳にケチまで付ける)東条英機の姿は悔しいが立派で格好良い。どんなに中立な視点に立っても偏見に塗れてしか見る事の出来ない東条英機という人物の見方が変わってしまう。これは「記録」というモノの凄さであるし「映画」というモノの恐ろしさであろう。作中二度ほど写る傍聴席に座る東条の家族の姿、簡単に「恣意を感じる」とは言えないが、東条英機を過小評価し負の面のみ目をやる事を常としてきた我々にとっては恐ろしいシーンである。
 「傍聴席の家族」でもう一人の被告の姿が思い浮かぶ。映画の中でも「公判中に妻が自殺」と紹介された外交官出身の総理経験者・廣田弘毅。映画後半で写る傍聴席の家族の姿は娘のみである。彼自身の経歴とそれとは反するような判決で被告中でも異色と言ってもよいかも知れないこの人物を今では再評価する声も多い。この人物を被告中異色たり得ていたのは決してその経歴だけでなく、後半途中で担当外国人弁護人罷免され、著しく不利な立場に置かれていたにも関わらず自身一度も証言台に立つことなく最終的に絞首刑という判決を受けた事。その「語らない」人物について先ほどの「妻の死」も含めてこの映画では触れる機会も多い。木戸孝一が評する通り彼の行動はやはり「立派だがつまらん事」なのだろうか? 結審後被告人個別に量刑を述べられる場面で「絞首刑」の告知を受けた時、同時通訳のヘッドフォンを脱いだ彼は左右に向かって(結果的にカメラ、つまり傍聴席)一礼する。彼は誰に何に対して一礼したのだろうか? 映画は結審後、量刑を告げられる場に残った全ての被告の告知の場面を詳しく紹介しているわけではない。

 ここに紹介したのは膨大な時間に昇る映画の内の印象に残った*5一部分に過ぎない。「法廷内外の人間劇」一つ取っても様々な立場の人達の様々な立場に立った多くの人間劇が繰り広げられるため、たぶん見る度、見る人毎に多彩な印象を得られる作品であろう。それら場面において、監督の言葉にない主張を巧妙に代弁する編集を見つける事も見応えの一つだろう。この映画そのものを歴史の証拠として提示するには、そもそも興業が第一の目的として制作される「映画」というメディアの特性上、無批判に受け入れる事は憚られるであろうが、もしも、将来訪れるであろうこれまで培ってきた日本の文化的危機と言う局面において、もしもそれまでに蓄積された映画フィルムの内、残すモノと処分するモノを選ばざるを得なくなった時、残念ながら数ある娯楽映画よりこの映画が残される可能性が高く*6、つまりその場合、「ナレーション:佐藤慶」の名が出演していた娯楽作を差し置いて残るワケであって・・・つまり歴史と一緒に佐藤慶の名が残っちゃうよ! と言う結局はそんな話しかい! と特集上映に相応しく(?)締めてみました。4時間にも及ぶ平淡で感情を抑えたナレーションご苦労様でした。そう言えば先のトークで「録音の西崎(秀雄)さんというキチガイみたいな人が・・・」と録音環境を徹底して管理された苦労話を話されておりましたが、ナレーションはともかく各場面(特に歴史的事実を説明する戦争等の場面)で挿入される効果音がわざとらしすぎて凄くズレた印象、これだけは残念でしたね。

*1:以下紹介するエピソードは11月14日に佐藤慶サマ御本人が『祇園の暗殺者』鑑賞のために来場されて開演前に行われたトークショー(?)で語られた内容。参加できなかった私に貴重なトークのデータを分けていただいた事に大感謝!

*2:などとエラそうな例えを用いてみたが、映画制作の過程はみんなそうだ。減点。

*3:異説アリ

*4:ここに至るまで検事・弁護人・判事・証人達はその都度登場して時には激しい議論を繰り返し、「劇」としての緊張はずっと維持されるが、一方で、何故ここに至るまで「主役」の被告人達の証言する機会がないのか? 理由はこの法廷で被告人に認められた証言の回数は「どんな場面においても一回のみ」という制限が付いているため多くの被告人は自身の証言の機会を最終弁論のみとしているから。冒頭に争われた「裁判の有効性」初め、大変矛盾に満ちた出来事、議論があった「事実」を「余すことなく」伝える事も忘れない

*5:やはり私は主役級であり歴史の重要人物となった被告人達の一挙手一投足が一番気になった

*6:注、以上全て根拠のし