その百二十九 邑楽郡大泉町古海 『高徳寺七母殿 摩利支堂』


 群馬に児島高徳由来の寺社があるという。岡山出身とされる児島高徳と関係する寺社が何故東国にあるのか興味を持ったため行ってみる事にした。ちなみに「邑楽郡」を一目で読む事の出来る人は隠す事の出来ない立派な群馬県人なのだそうな。
 児島高徳由来という「高徳寺」は群馬県内でも利根川近くの大泉町の、田園部と住宅地の間、更にもう少し行くと工場街になるという境界のような場所にあった。寺域に本堂の他小堂、他に離れた場所に神社が二社鎮する。寺と社、両者に元々直接の関係があるのかは判らない。
 それで児島高徳と当寺の関係、寺の門前に掲げられた由緒書きアリ、その概要は掴む事が出来る。曰く、美作の一件の後、晴れて後醍醐天皇に出仕、宮方の一勢力として活躍した高徳は、南北朝成立後も南朝方の武将として各地を転戦、その後交流のあった上野国の豪族に招かれてその地にて出家、出家後も関東における南朝方の一味として嘗て共に戦った新田義貞の子息達を援助しつつこの地で没したとの事。この人物にはいわゆる「児島高徳非実在説」があり、せっかくの寺伝をそのまま信ずる事は出来ないと疑義を挟む事にもなる。寺域にある由緒書きと、碑は皇国史観の賜か、その思想が既に亡んで後、当寺でもその思想の変遷を経た名残か現在寺では大っぴらに児島高徳を顕彰してはいない。ただ、やはり、その確実な証拠はないとは云え、児島高徳がここに来ていた方が面白い。よって高徳はココに来た。
 寺内、門前の小さな碑と由緒書きを除いて児島高徳を偲ぶ跡は見当たらない、見かけは変哲ない檀家寺と言った様子。それでも本尊が拝めればと向かった本殿の扉は固く閉じられ戸のわずかな隙間からも中の様子を窺う事は殆ど出来ない。「医王山」の名が示すところ本尊は薬師如来であろうか。
 寺院なので、神社に比べて偶像は割合多く存する。門前に数体、地蔵、馬頭観音如意輪観音の石仏。その内僧体の一見地蔵菩薩様の石仏、頭を丸めた僧体とは言え手に剣を持ち凛とした険しい顔つき、これが寺の表、道の方を向かず寺域の方を睨むようにある。地蔵菩薩にしては異様な姿、この威風に私は勝手に児島高徳の姿を見た。本当に高徳の姿であるなら面白いではないか。
 この寺院に訪れた目的から千社札を納めるとすれば、本堂にではなくこの地蔵像/児島高徳像にであろうが、残念な事にこの像のための庇を有する建物はない。仕方がないので別の方へ目をやると山門の斜め方向に本堂とは別の堂があり。堂には「七母殿摩利支堂」と書かれた額を掲げる。文字通り摩利支天を納めたお堂であろう、中を覗いてみようと堂の扉によると、このお堂の扉、さすがに開ける事は出来ないが、戸の一部、障子状の目の部分にガラスも板も紙も貼られておらず、この部分に風雨吹き付ければそのまま堂内に入りっぱなし。お陰でこの目から堂内の様子はよくわかる。その堂内の様子、肝心の摩利支天像は影も形もない。本来像を納める厨子もないため何処か別の場所に納めているのだろう。「消えては現れ、その影を踏む事すら出来ない」陽炎を神格化した摩利支天は古来特に戦時における武士階級の篤い崇拝を受けたという。児島高徳がこの地で特に別堂を設けて崇拝するに相応しい神格を持つ仏であり、また、その真の姿形詳らかならない児島高徳という物語上の人物の影を踏むに相応しい仏、故に千社札をお収めさせていただくのは主の不在のこの摩利支堂にする事にする。なるべく高いところに千社札を納めようと建物に近づいて初めて堂内の天井の装飾を知る。天井一面に三十六歌仙図。風雨吹きさらしのお堂では凝った天井板も早くに痛むだろうに、ひどく勿体ない気がしてお堂を離れた。