鴨川鉱山を探して歩き回る

 突然ですが、私はつい最近まで千葉県民でした。そんなに長くもない私の人生において殆どの年月を千葉県民として費やしていたということです。時々あまり観光地観光地していない場所を訪問、そこらをウロウロしていると不審多大興味僅かの思いに駆られた近辺住人が警戒して話しかけてくるコトがあります。「何故ここに来たのか」説明すれば大概は不審の衣を脱いでくれて、後はヒマに任せて聞いてもいない世間話に突入することが多いのですが、訪問する所が訪問する所という場合が多くまず大抵の「こんなとこ来ても何も見る物無いでしょう」と半分「そんなことありません」の答えを期待しての質問が飛び出します。勿論期待通りにその答えを私が述べた後、まず間違いなく出てくる質問が「どちらから?」と言うモノ。千葉県民だった頃はもちろん「千葉」と答えるワケで、この答えに嘘偽りは全くない。こう答えた後、恐らく相手の方は「先程地元を褒めてくれたお礼に」と「私の地元」「千葉」を褒める言葉を語ってくれるくれるわけです。「千葉を褒める言葉」・・・それは殆どが「海岸線が珍しい」「海がキレイ」「海産物が美味しい」「日蓮宗」と言ったモノばかりです。私とて人の子、地元を褒めていただけることは人並みに嬉しい。嬉しいが、私が語った「千葉」とは「千葉県民」のことだ。あちこち出かけて学んだ殆どの人が持っている「千葉」のイメージは「ウォーターフロント」と云うコトでまとまっているらしい。私は千葉の外れの下総東葛飾地方、それも北側に住んでいてた、所謂チバラギ県人である。チバラギ地域に住む人々は千葉島政府が公式に認定する千葉県の棄民で、松戸・柏・流山等に点在する県・警察・裁判所支部で各種行政手続きはおろか裁判に於いてすら地裁までは当地、そのお次は東京高裁と、要するにここらの住民は県都千葉に入ってくるなと言わんばかりの住民サービスが敷かれている。何が言いたのかというと、要するにここらに住む人々にとって、ウォーターフロントと言えば利根川・江戸川沿岸のコトで、「千葉の海」は浦安・船橋・千葉の埋め立て地でさえ遠い地域のお話であり、休日は千葉の海側へ行くより茨城の山側へ行く方が圧倒的に多い(たぶん)。つまり「千葉の海」は全く別の地域に住んでいる訪問先の住民と同じように私にとってアウェイなのである。なので、お互いの住まいのお話に「千葉の海」のお話が登場する時ほどツライことはなかった。いちいち説明するの面倒くせぇし。その点、現在住んでいる「埼玉」は、離れて地域に住み人々にとって特徴を掴み難い場所であるらしく、「お住まいは埼玉ですか。埼玉の? はあはあ」でスルーされ話題終了することが殆ど。有り難い*1

 と言うワケで、千葉について私が知ることは殆ど無く、知っていたとしても「柏と松戸が仲が悪いのが有名だが、千葉県内でも成り上がり者として有名な柏を県内他住民は皆潜在的に嫌っている」「浦安はもっと浮いてる」「他県に通う高校時代は動労千葉と関係ないのにそのせいにしてしょっちゅう早退していた」「新京成線は嘗て京急並のジョットコースター電車だった」「昔大洋ホエールズでシブい活躍していた銚子利夫は出身高校が銚子市の銚子高校なのに本当は茨城出身だった」とか柏・我孫子より南、或いは西のコトは殆ど知らない。よって、その昔、「現鴨川市周辺に鉱山があった」と云うコトについては全くの初耳の話で、千葉の安房地方なんて海のすぐ近くでそんなモンがあったのかと興味を持ち、WEBで適当に情報を拾って大体の場所を特定したのが前日の夜中。さすがにネットの情報だけでははっきりしません。何よりこの鉱山、操業していたのは大正9年までとのことで、今は痕跡も残っていない可能性もあるのですが、そこはソレ、まずは行ってみることにしました。


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 WEB上の情報によると、「鴨川市太海」もしくは「鴨川市貝渚」あるいは「鴨川市内八岡山」と言う地名が散見されます。また採石系のあるサイトによると鴨川市内にある「鴨川青年の家」と云う県施設が建つ辺りの下方でかんらん石等の採取をしたとの情報もも多々あり、とりあえずこの周辺であろうと目標を決めて行ってみました。

 とりあえず、鴨川市内方面から向かった途中、「鴨川松島」と名付けられた景勝地より青年の家方面を望みます。左側の海に近い方が「鴨川青年の家」、そのすぐ右側、写真のほぼ中央部にある丘陵は「巾着山」もしくは「八岡山」と云われる(個人のWEBサイトにしか現れなかった名称のため正式名称かは不明)山で、某サイトによると丁度この一から湾を夾んで山の遠景を捉えた構図で「鴨川鉱山」と題された明治・大正期の古写真絵葉書が存在するとのこと。ヤフーオークションを覗くと古写真を扱う業者と思しき出品者が不定期に「鴨川鉱山」と題する出品物を挙げている痕跡が残るが、現在出品はなく、商品確認等で間接的に確認することは出来ませんでした。


 下調べしないで行動するのは毎度のコトながら本当に悪いクセだと思います。が、来てしまったのものは仕方がないのでひとまずこの「巾着山」もしくは「八岡山」周辺から歩いて回ることにします。写真はその「八岡山」に通されたトンネル「八岡隧道」。

 ここを抜けて反対側に鴨川青年の家、その構内から「八岡山」の海側斜面を見てみます。

 あちこちオーバーハングした場所があり崖崩れ防止のネットが張られています所からもろい材質で出来ているようですが、石のことは全く知識がありませんのでよく判りません。

 鴨川青年の家敷地内に付近の岩についての説明書きがあり、それによると「枕状溶岩」と云う地底の溶岩が吹き出して地表に出た部分から段々固まり特異な形状を示す珍しい蛇紋岩で、採石場として機能もしていたとのこと。山の形が歪なのはその採石により削られたとのこと云々。この山が採石場であったことは確かなようです。ただ「鉱山」とするには少し弱い気がしますし、鉱山にせよ採掘場にせよ所謂「ズリ」が一カ所に固まって残っていそうな気もしますのでもうちょっと辺りを歩き回ることにしてみます。

 青年の家の崖下はむき出しの岩肌に多くの釣り人が割拠する釣り場になっているようです。この場所へは青年の家駐車場を介して降りることが出来ます「釣り人がいるので石を投げるな」との注意書きアリ。どちらかというと不法侵入している釣り人に非があるように見えますが、釣り人強し。

 もうちょっと近寄ります。明らかに異常な形状の地形が広がる岩場。よくこんな所で釣りするよと釣りに理解のない私の一方的な感想です。

 岩場の様子。見ての通り、ゴツゴツした岩の露頭があちこち広がり特徴的な風景を作っています。岩肌がもろいのかあちこち崩落の跡があり落石したと見える岩も沢山転がったままになっていたり、波に浸食されて線状の岩肌が不思議な形に削れていたりしてます。地層の見方とかもよく判らないのではっきりしたことは言えないのですが、途中で岩の種類が変化している場所があったり、同じ岩の中でも地層に沿って長大な裂け目があったり、全く正体不明な蜘蛛の巣状の文様の浮き出た岩があったり、また突出した岩の先や岩の間に周囲とは異なる黄色や白色の岩が見えていたりと岩の表層の様子も凄く特徴的で魅了されそうです。石マニアの気持ちが少しは判った気がしますが、岩の隙間に釣りエサやコマセの空き袋を放り投げたりトコロ構わず外道のフグを投げ捨ててるマナーの悪い釣り人は死ねばいいのにと本気で思います。岩場を伝って海岸線に沿って出発地近くの青年の家向こう側へもでることが出来そうでしたが、そこにも釣り人が陣取っていて行くことが出来ませんでした。趣味に生きる人間はお互いマナーを大切に。

 岩場には面白い景色が広がっていたモノの、鉱山・採石場の痕跡と思われるようなモノは皆無、場所移動です。この場所には岩の出っ張りが丁度足場のようになった崖を降りて来たのですが帰りもそこを上るのが面倒くさかったのですぐお隣から南側に広がっている砂浜を通って道路まで戻ることに。

 それには岩場と砂浜の間にあるこの場所を

 こうなっている間に渡らなければなりませんでした。冬の海水は半端でなく冷たそうで、で済めばよいですがヘタしたらさらわれるかも・・・

 無事着。潮が引き気味だったのでそんな大したことではありません。

 砂浜では打ち上げられたサメ君がお出迎えです。種類はたぶん「ツマグロ」。ヒレだけ取られてます。あ〜あ・・・。

 まっ、砂浜は特に見るべき物は見当たらなかったので早々に上がると、砂浜を上がってすぐの所にあった家のシロイヌが吠えてきました。

 折角なのでそこのおばさんに昔鉱山があった場所を知らないか尋ねてみることにしました。するとイヌは吠えるのをやめました。おばさんは自分には判らなかったと見えて奥の旦那さんに聞きに行きました。冷蔵庫は開けっ放しです。

 60代後半くらいのおばさんは「うちには年寄りがいないので昔のことはよく知らない」とした上で「10年ほど前まではあの山で採石をしていた」とのこと。しょっちゅう発破をかけたりとそれなりの規模のモノだったようです。

 近くのホテルのフロントの一番エラそうな人にも聞いてみましたがやはり「採石場」「今は採っていない」「当時からの加工場なら山の西側に今でも残っている」と云うことしか聞けませんでした。山の南側、太海駅の方にかけては砂浜の横たえる見通しの良い場所ですが山や岩肌とは離れてしまうため鉱山のイメージとは離れてしまうようです。トンネルを通って北側に戻ります。

 道をそのまま北側、鴨川の市街地方面へ向かいます。何の手がかりもないのですがWEBに出ていた「貝渚」の字名を頼りにしてのコトです。途中に民宿アリ、その前で丁度お掃除をしていた女性お二人に尋ねてみる。うち一名は93歳とのこと。元気にお掃除・・・。さておき鉱山について何か知らないかどうか訪ねてみると93歳の老婆は「昔、嶺岡山一帯に鉱山があったことを聞いたことが、聞いたのは私のおばあさんからだからもう200年近く前のお話だと思う」「話に聞いただけで私自身はどこにあるか知らない」「今嶺岡山と云われる辺りは別荘地になっていて古い住民がいないので知ってる人はいないと思う」「ここらも住民の入れ替わりがあったのでそこまで古い話を知っている人はいないと思う」とのこと。93歳のおばあちゃんが知らないのだからもうこれは誰も知らないと考えて良いのだろう。果たして鉱山の痕跡なんか見つかるの?

 ここで一旦区切ります。続く

*1:一人だけ、澁澤榮一と澁澤龍彦について熱く語った御仁がいた。話題についてはむしろ望む所だがいかにも田舎で燻ってる感がツラかった