『ブルー・ゴールド-狙われた水の真実』

 「国際連合」と云う組織が一部の大国の利益のためだけの調整機関と云うコトは、青山の国連大学を訪れた事のある人なら誰でも知っている。所謂「中道」を称さない「右派」も「左派」も挙ってその辺を攻撃する「国連はもはや体を成していない」と。ちなみに私は国連大学がなんのために青山ブックセンターの隣にあるのかよく知らない。
 その国連は、現在地球を取り巻く環境的問題について、「温暖化」と呼ばれる大気が介在する事によって地球規模で引き起こされる問題と将来的な危機については事ある毎に訴えているが、異なる媒体の問題「水」の危機については全く述べる事がない。何故か。それは国連の公式見解として、「資源」としての水は「人類が共有すべき財産」ではなく「一部の者に利益をもたらす商品」と認めているからである。何故か。
 この映画のサム・ボッゾ監督は、デビッド・ボウイが主演した1970年台の映画『地球に落ちてきた男』の続編を当初撮ろうと思い、その映画で異星人が地球を訪れる目的となった「水資源の枯渇」と云うテーマについて調べたところ、自らの常識を脅かす驚愕の事実が次々と現れ、その現実を世に問うためそのテーマについてのドキュメンタリー映画を作る事にしたとのこと。一度に数台のテレビを鑑賞し、モーテルのエレベーターの発する微弱なGに耐えきれずに気を失ってしまうトーマス・ニュートン氏の後裔が今度は同じく危機に瀕した地球を飛び出していくとは魅惑的な物語じゃないか。結果、ボッゾ監督は魅力的でファンタジックなエピソードをただの一つとして拾う事の出来ないおぞましい現実をすくい上げる道を選んだ。
 映画は作中幾つかタイトルを付けて区切られ、その最初に紹されるのはある男が金脈を求めて水に飢えたまま砂漠を彷徨い半死半生の体で助けられたエピソードである。体表の水分を生きる極限まで奪われたその男の姿は、デビッド・ボウイの演じた宇宙人のそれである。冒頭において、この映画は『地球に落ちてきた男』の姿とリンクする。ただしデビッド・ボウイの演じたニュートン氏が第一に愛する家族を救うためと言う切実な思いを胸に秘めて地球を訪れたのに対して、この映画の冒頭の彼は金鉱という一攫千金を目論んで得た姿であった。言葉によって語られるその男の姿は既にグロテスクで想像力を働かせれば十分ショッキングであるのだが、以降冒頭の彼の姿が何を表しているのかを、そしてその不条理と危険性を、最後に希望を、映画は順を追って説明する。冒頭のショックだけでなく、各題の中途、話題の端々にショックを与えるだけの話題、映像を挟み込む事はドキュメンタリー映画としての演出としてありきたりの気がするが、私にしてみればこんな演出など入れなくても、「資源としての水」を巡る世界の出来事の事実*1そのもののみで十分ショックを与える事が出来ると思う。富の不均衡とは資本主義が生まれて以来、「持つモノ」は是正どころか問題にすらしようとしなかった問題で、どのように可視化を試みようとも最後は有耶無耶になるのが強者と弱者間という水平でない関係故の宿痾である。今や「持つモノ」は、弱者に振り向けるべきその一抹の善意さえも金に換えるべく暗躍する存在にある事、「生活に欠かす事が出来ない」とされるエネルギーについては『エンロン』で、医療問題については『シッコ』で過去解りやすく述べられている事もあり*2、企業が持つありとあらゆるカネづるが生命の維持に直結する「水」に及んでいたとしても、もはや驚くに足りない事かもしれない。ならば実際にそのような現場ではどういうことが起きているのか? それこそ想像を絶するショッキングな出来事がこの映画では語られる。未だに大企業に善意があると信じている人々はこの映画を観ると良い。即ち、「未だにテレビの情報を鵜呑みにしている」人達に。ちなみに日本で現在潜在的な脅威とされる「某隣国等による国内の水資源、権利の搾取」については述べられていない。当然である。これは我が国の問題である。ただ映画中で挙げられた「世界の水資源貧国」の中に中国の名前が入っていたのは事実だ*3。ところで、民主党という現政権党は今国会で外国人地方参政権を認めようとしているそうな。

*1:あくまでの、映画が語るところの

*2:もちろん全てを信じているわけではないし、例に挙げた映画はアメリカ国内の問題に一応限定して述べられたモノだ

*3:繰り返すがあくまでも映画の中での事実である