その百三十二 入間市東町4丁目 『東愛宕神社』


 越谷を起点とし、途中浦和を通過して所沢に至る国道463号線の通称は「ウラトコ線」。この道を北浦和方面から所沢に向かって真っ直ぐ、やがて所沢市に入りこの国道が「ウラトコ線」で無くなっても国道は終わらずそのまま入間市まで続く。通称の意味から所沢から先の道路を「ウラトコ線」と呼ぶのは正しくないように思われる。ではどう呼べばよいのか? 私は知らない。それにしても越谷から入間を結ぶ道路のハズなのに、その通過点のウチ一番大きい都市名と二番目に大きい都市名のみを表した「ウラトコ線」とは考えてみれば随分不遜な通称だ。埼玉県道3号さいたま栗橋線を「さい栗線」はおろか「大栗線」とさえも呼ばず「栗橋線」と呼ぶ私がもしも入間市民だったらこの国道を絶対に「ウラトコ線」とは呼ばないような気がする。では国道463号線の所沢以西、入間までの区間の通称をなんと呼ぼうか? その該当区間を走る時にはいつもそんな事を考えながら走っているが、所沢市街地に入って以降いつもいつでも渋滞に巻き込まれてその状態で入間まで至れば当然疲れてしまうのでいつも忘れてしまう。そんな決意を忘れた頃、つまりいい加減渋滞に飽き飽きして疲れた頃横を向くとあるのがこのお社。もしもお社が嫌いな場合、向かいには六地蔵さんも鎮座まします。
 境内に入ろうと、鳥居を潜る。国道に面した入り口は大変狭いのに、参道を少し進むと奧は少し広く、脇に広場。良くある神社付属の子供用広場と云ったところ。普通この広場とセットで神社に付属しているのが地域の公民館と云ったところだが、夜ほうもん、暗がりの中ではその存在良くわからず。参道に戻ると国道に面した一の鳥居を過ぎてその少し先に二の鳥居。もう少し進むと狛犬登場。夜だろうが昼だろうが関係なく阿吽の呼吸に歯茎が健全。その二の鳥居と狛犬とに挟まれた参道上の空間に、参道の脇に植えられた松から伸びたながーい枝が一本はみ出すままにはみ出し、途中一回転だけなだらかな渦状にくるりと回って再び参道に沿って伸び、自分では支えきれなくなった枝を人の作った柵が支えて一段落。鳥居の先から、或いは神社のもっと奧から見ると枝が輪っかを作って結んでいるよう。何処かで見たこの風景、歌川広重作『名所江戸百景』中「上野山内つきのまつ」の画にそっくり。くるりと、輪を結ぶが如くの松の枝、『名所江戸百景』には真ん前近くから見た図と少し高所から遠目に見た図の二種類の構図があるが、この入間のつきのまつ、残念ながら高所からその奇観を拝む場所は存在せず。もっと云えば神社の奥まった場所、遠目でこの枝に気付くのは辛く、国道からも良くはわからない。
 本殿は参道の延長線上にではなく参道を外れてその参道横に向かうようにあり。そこそこの数の願掛け絵馬と千社札。では参道の先には何がある? 幾つかの碑が神社境界の塀を背にして参道に向いて立つ。内一つ、「善蔵新田村300年記念」碑。「善蔵新田村」、調べると今の入間市になる前の「豊岡町」のそのまた前の地名。「善蔵新田村」その他幾つかが合併して「豊岡町」になりその豊岡町始め幾つかが合併して「入間市」になったとの事。地名が無くなったのは大昔の事だが、その無くなった地名の「300年」を讃えるとなるとこれはタダ事ではない。完全に住宅地と化した周囲、この「善蔵新田村」の頃より住む人達がどれくらいいて、その末のこの「碑」なのか。よくよく思い益々タダ事ではない。神社鳥居向かいの六地蔵とさっきは秘密にしていたお稲荷さんもその頃からのモノであろうか、となるとこれだけ多く宗教施設が集中するこの場所は一種の聖地だったのであろうか。想像に思いを馳せ参道にたたずんでいると「つきのまつ」の下、闇の中参道をネコが横切っていく。撮影試みるもあえなく失敗、写真に姿を残せなかった事を知っているかのように神社境の塀よりひょいとこっちを向いたネコ、そのまま隣家の敷地へ。このネコの家系はいつからこの場所にいるのか。ネコ時間で何代くらい経ると「300年」に達するのだろうか、ちょっと気になった。