その百三十三 太田市新田市野井町 『生品神社』


 新田義貞は、最初この場所で一族と集い神前で倒幕の願を誓った。『太平記』はこの場面以降、鎌倉を目指して南下、一族初め各地の武士、足利高氏の長子千寿王丸と合流、迎え撃つ北条一族を撃破しながら遂に念願叶い鎌倉幕府の滅亡するまで物語のハイライトとなる。『太平記』は新田義貞をあまり評価していないらしく、以後後醍醐天皇の配下として足利尊氏始め武家方と戦う義貞の働きははっきり言って冴えない。この生品神社からの場面こそ『太平記』中唯一と言って良い義貞の魅せ場を彩る場面で、実際に稲村ヶ崎に太刀の場面を頂点に義貞のための物語である事に違いないのだが、私は対する鎌倉幕府、頑強に抵抗を試みる北条一族の持つ意地と一方であきらめに似似た感情の伝わってくる滅びの美に目が行きがちに、結局義貞が割を食うという構図に。北条方の手下を斬って挙兵を決意する描写は『史記』の項羽挙兵の場面に通じるのに、『太平記』で項羽の役回りをなぞるのは楠木正成の役割になってしまっている。こと義貞に関して、『太平記』はイジワルこの上ない。
 さて、群馬は新田(「太田」とは言わずあえて、それも旧郡名の「新田」と呼ぼう)に来た理由はもちろん新田義貞関連の史跡を巡って、のハズだったのが途中経緯は忘れたけどなんか色々あった関係で結局「生品神社だけでいいや」と云うコトになり、当神社へ。太田市始め旧新田郡域を訪れた方はご存じの通り周辺観光で盛り上げるためには新田義貞は絶対欠かせない存在で、鎧甲の武者に扮した変なキャラが案内する義貞由来の旧跡案内地図まで登場している。決して悪くはないのだが、そんなお仕着せがましい「新田ブランド」にも閉口したのが結局この場所しか訪れなかった理由の一つでもあった。生品神社とてそんな「新田ブランド」の上位を飾る物件に違いないのでそれを忌むのなら近寄る事も、ともなりかねないがそれを判った上でも行きたかったのでそれはまあ。
 境内、予想の通りあちこち「大中黒」の紋。境内に立てられた幟、境内の赤い神橋、等々。当社元々、オオナムチ神こと大国主命神を祭る国津神系の神社で、新田義貞の縁など、言ってしまえば後世この地を治めたのが新田氏であったとの言わば偶然に過ぎない。にもかかわらず境内あちこちの新田の史跡、皇国史観盛りなりし頃の名残と言ってしまえばそれまでだが、太平記でヒドイ扱いを受ける敗者の中の敗者がここで多く持ち上げられている様子に悪い気持ちの起きようはずは無い。イヤはっきり言おう。「義貞さんが其処此処で顕彰されてて我がコトのように嬉しい」。ただしコレ、境内鳥居入ってすぐ右、休息所にへばりついて置いてある、幾つか並ぶボタンを押すとそれに応じて神社始め周囲の新田氏関係史跡の映像解説を流してくれる透明のプラ板で囲われた、明らかにNHK大河ドラマ太平記』に乗じて一山当て込んで設置した風のテレビのモニター、お前は明らかにやりすぎだ。しばらく境内にいて私以外にこのボタンを押す参拝客の姿は見かけなかったが、未だに動作するところ、立派と評するよりも使われていないので消耗していないと取った方が良いと思う。その昔、日本は無駄に豊だった。
 神社の奧、本殿周囲は木が生い茂り、ブームに翻弄される下界の様相など知らぬが如き静観の構え。社はこうでなくては、姿は静寂にある。先程も述べたようにこの神社の祭神はオオクニヌシとの事で神社そのものは遙か昔より鎮座する由緒を持つ。後から知った事なのだが祭神、オオクニヌシ神の他にもう一柱「平将頼公」も共に祭るとの事。平将頼? なんてマニアックな・・・。平将門公を祭らずあえてその弟を祭るところ、何かの謂われを隠すコトの裏返しなのだろうか? 浅学にして、平将門関係の社で将門本人を祭らずその縁者のみを単独で祭る神社を他には知らない。予め知っていればもっと色々と境内を見て回ったろうに、私が行ったその時、格式ある様相は自ずと伝える静かな本殿、上州中他の地にある神社のように(→http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20100104#p1)ここにも生まれたばかりのこの名前が貼られる。ついでに何故かドラ○ちゃんらしき姿を描いた千社札もあり、これも生まれたばかりの子の壮健に因むモノなのだろうか? 或いは一番の謎、コレかもしれない。祭神の謎、戦乱や権力者の思惑、テレビの一時的ブーム、世情の濁流に濯がれながらも有るべき場所の産土として鎮する姿は大変好ましい。ここは義貞に因んで大きなコト祈願して、と言いたいところだが止めにする。鳥居を後にして思う。せめて鎌倉街道が今に残っていれば、大宮まで1時間で帰る事が出来るのに・・・。間違っても私に鎌倉が墜とせようはずは無い。